新古今の周辺(40)鴨長明(37)歌論(9)「幽玄の心」のある者

鴨長明は幾つかの場面を示して「幽玄の心」のある者とない者の違いを『無名抄』で述べているが、私としては藤原良経と藤原定家が詠んだ歌から「幽玄の心」とはどのようなものかを探ることにした。

71近代の歌体 9

鴨長明は【秋の夕暮れの空を見て】、【良き女が恨む様をみて】、【かわいい幼子が舌足らずに喋る様を見て】などの状況を例示して、「幽玄の心」がある者とない者が詠む着眼点の違いを対比しつつ「幽玄の体」について述べているが、私としてはここで「幽玄の体」の代表とも云える藤原良経と藤原定家の次の歌から「幽玄の心」を推し量ってみたい。

暮れかかるむなしき空の秋を見て 覚えずたまる袖の露かな
(藤原良経 新古今和歌集 秋上 358)

見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮
藤原定家 新古今和歌集 秋上 363)

上記の歌には秋の夕暮れの空の色もなく、鮮やかな紅葉や花の色もないが、だからこそ、たたずんでいるだけでわびしさがただよい、大した意味もないのに涙が毀れてくる心情が感じられる。

それに対して「幽玄の心」のない者はこういう状況を歌の題材にすることはないであろう。彼らにとっては、鮮やかな紅葉や鳥の声など目や耳にはっきり感じるものがあって初めて歌の題材になるのである。

また、美しい女がじっと恨みに耐えている姿を見ても、「幽玄の心」のある者はその姿から深い恨みの心情を推し量り、その思いの深さを表す言葉を選んで女の気持ちを表現しようとするが、「幽玄の心」のない者にはそういう姿自体が歌の題材にならず、激しい恨みの言葉や身悶えしながら袖の涙を振り絞る姿こそ歌を詠む題材になるが、詠むといってもその動きや言葉から感じたままを言葉にして詠むだけである。

総じて、「幽玄の心」のない者は「月をくまなし」と詠み「花を妙なり」と讃えるように、目に見える物や、耳に入る声や音などについて感じたままを言葉にして歌を詠んだつもりになっているが、それだけでは歌とは言えず「ただ物を言っている」のと少しも変わらない。

「幽玄の心」のある者は、眼には見えないあれこれを想像してそれを表すにふさわしい詞を選び、ひとつの詞に様々な意味を込め、あからさまな言葉を使わないで深い意味を表し、卑しい言葉を使いながら優雅な場面を表現し、一見愚かに見える詞を用いながら何とも言えない深い道理を極めるからこそ、わずかに三十一文字にして天地をも動かす徳を備え、鬼神をも和む術に至るのである。

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫