新古今の周辺(38)(余話)『近代秀歌』に探る新古今体とは?

先回は幾つかの文献から「新古今体会得の要は古典知識と暗記力」と私なりの考えを述べたが、何故古典知識が要なのかを、藤原定家源実朝の求めに応じて承元3年(1209)に書簡の形で送ったとされる歌論書『近代秀歌』から探ってみたい。

『近代秀歌』は

「(源実朝とおぼしき)ある人の、歌はいかやうによむべきものぞととはれて侍りしかば、愚かなる心にまかせて、わづかにおもひえたることをかきつけ侍りし。いさゝかのよしもなくたゞことばにかきつづけてを(お)くり侍りし。見ぐるしけれど、たゞおもふままのひがごとに侍るべし」

と、謙虚な書き出しながらも、

「むかし(古今和歌集を代表する)貫之は、歌の心は巧みで品位は高く、ことばの調子も強く、歌の姿も趣向に富んで優れていたが、余情妖艶(艶に哀れな)の躰は詠まなかった。その後の歌人も貫之の流れを受け継いだが、時を経るに従い人のこころは劣って品位も失せ、言葉も卑しくいやしくなっていった。いわんや近い世の歌人はただ心に浮かんだままの風情を三十文字にあらわすことにとらわれて、さらなる歌の姿や言葉の趣を知らず」

と、古今集以降永く停滞している和歌の現状を厳しくとらえ、

「ことばはふるきをしたひ、心はあたらしきを求め、を(お)よばぬたかきすがたをねがひて、寛平以往(※)の哥にならはゞ、を(お)のづからよろしきこともなどか侍らざらん。ふるきをこひねがふにとりて、昔のうたのことばをあらためず、よみすへ(ゑ)たるをすなはち本哥と申す也」

と、古今集が成立した寛平(※)前後の六歌仙時代の歌から学べばおのずと優れた歌も生まれるのではないかとの思いから、古いことばを活かすために昔の歌のことばはそのままにして、それを土台にして歌を詠む「本歌取り」の技法を提言している。

そしてその後に続けて本歌取りの望ましい在り方を述べ、さらに古今集から新古今集に至る和歌の中から定家が秀歌と評価するものを列挙している。

ところで、本歌取りの例として余りにも有名な藤原定家の「駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ」(新古今和歌集 巻六 冬 歌 671)の本歌は、長奥麻呂(ながのおきまろ)の「苦しくも降りくる雨か神(みわ)の崎佐野のわたりに家もあらなくに」(万葉集 265)とされている。

(※)寛平(かんぴょう):宇多・醍醐天皇朝の年号(889/4/27〜898/4/26)

参考文献:『日本古典文學大系65 歌論集・能楽論集』久松潜一・西尾實校注 岩波書店

    『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上』 久保田淳校注 新