さて先回の優雅な歌合に対する見苦しく騒々しい歌合とはどのようなものであった、これも俊恵の言葉を借りて長明は『無名抄』で次のように伝えている。
54 近代の会狼藉のこと
「最近の歌合に連なってみて思う事は、先ずは会場の設営から始めると、参加者の衣装がくだけすぎ、人々の表情や態度には緊張感が感じられず、みだりがましさが度を越えている。
次に歌合の進行については、相当前広に10〜20日も前に歌の題を出しているにもかかわらず、その間いったい何をして過ごしていたのか知らないが、まるでその場で題を出されたかのように延々と歌を案じて徒に夜を費やすので興ざめするだけでなく、講師(※1)が歌を詠みあげて披露しているにもかかわらず各々が勝手に喋り合って周囲への配慮が足りない。
大した歌も詠めないくせに先輩歌人への敬意は露ほども払わずに自分は歌を分ったような顔をして振る舞い、その実他人の作品を褒めたり批判したりする歌の判断力を持ち合わせていない。
まれに作品の良し悪しを判定するベテラン歌人が居ても、人の顔色をうかがって依怙贔屓をするので考えるだけでも味気なく、こういう雰囲気の中でせっかく良い歌を詠んでも夜の錦(※2)と同じで甚だ張り合いがない。
中には声さえ大きければよいと首を怒らせて声をはりあげて読む様子も分別に欠け、全てにおいて騒々しく、品がなく、当人は懸命に優雅に見せようとするもののわざとらしさが鼻につく。
とどのつまり、これは、本心から歌を好んで極めたいと思っているのではなく、周囲が歌を詠むから自分も遅れじと、表面的に歌人のふりをしているに過ぎないからだ」
(※1)講師(こうじ):歌合の席で参加者の歌を詠みあげて披露する役。
(※2)夜の錦:夜美しい錦を見ても誰も見ないのと同じで、張り合いがない。
参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫