新古今の周辺(9)鴨長明(9)歌合(1)長明の受難

およそ2千首に近い歌を20巻に収めた『新古今和歌集』の成立において、平安初期以来宮廷・貴族から長明の師・俊恵のうらぶれた僧房にいたる幅広い人々の間で盛んに催された歌合(うたあわせ)の果たした役割は大きい。

歌合は歌人を左右に分け、彼らが詠んだ歌を左右一首ずつを対として判者が優劣を下し、優劣の数によって勝負を決していた。その単位を一番といい、代表的なものとしては、後鳥羽院が30人の歌人に百首ずつ詠進させた「千五百番歌合」と、左近右大将藤原良経が催して顕昭藤原経家を代表とする六条家(※1)と俊成・定家を代表とする御子左家(※2)との白熱の対決の場として語られる「六百番歌合」が挙げられ、この二つの歌合から『新古今和歌集』に多くの歌が採られている。

特に貴族が催す「歌合」は歌の勝ち負けを競うゲームであるだけでなく、宮廷や摂関家での和歌の指導役のポスト獲得競争の場でもあったから、優雅さだけではなく熾烈なドラマが展開されたと同時に、和歌を生き甲斐とする人々の涙ぐましい奮闘ぶりが披瀝される人間臭い場でもあった。

既に述べたように鴨長明も高松院の歌合(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20141015)で青年歌人として名を連ねただけでなく、その後も様々な歌合の席に臨んでいたが、

「ある所にて歌合し侍りし時、海路を隔つる恋といふ題に、歌はわすれたり、筑紫なる人の恋しきよしを詠めりしに、かたへはこれを難ず」で始まる『無名抄 3 海路を隔つるの論』は歌合の場での長明の受難を描いたもので、当初は相手チームから批判されたのだが、恃みとすべき味方チームからもさしたる応援もなくて、おろおろしている長明の様子が原文からも充分に伝わってくるのでそのまま引用すると、

「さらなり、筑紫は海を隔てたれば、思ひ続くるにはさることなれど、徒歩より行く人のためには、門司の関まで多くの山野を過ぎて、ただいささか海を渡るべければ、題の本意(ほい)もなく、すこぶる広量(くわうりゃう)なる方もあり。たとへば陸奥の国なるひとを恋ふるよしを詠みては、この歌一つにて、野を隔つる恋にも、山を隔つる題にも、もしは里を隔て、河を隔つるにも用ゐむとやする。題の歌はさもと聞こゆるこそよけれ、あまり座広(ざひろ:茫漠としてとりとめがない)なり」と。

他の人からも
「歌はさのみこそ詠め。まさしく海をだに隔てば、かならずかの磯なる人おこの浦にて見わたすべきことかは。あまりの難なり」批判されて、その場に先輩格の歌人が多く参加していたが大議論になり、長明自身が期待していた歌人たちの多くも批判を尤もなことだと受け止めていた。

しかし、その時詠んだ歌は後白河法皇の宣旨により藤原俊成が撰集した『千載和歌集 恋五』に

936 おもいあまりうち寝る宵のまぼろしも海路を分けて行き通ひけり

と、採用され、わずか一首であったが長明の気分を高揚させている。


(※1) 六条家(ろくじょうけ):歌道の家柄のひとつで、藤原顕季(あきすえ)を祖として、藤原顕輔・藤原清輔(きよすけ)・顕昭らを生んだ。柿下人麻呂(かきのもとのひとまろ)の肖像を家を嗣ぐしるしとして伝えた。鎌倉時代初期には御子左家と対立するようになった。

(※2) 御子左家(みこひだりけ):藤原俊成・定家の時代に確立された歌道の家柄。


参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫