京の公家政権と鎌倉の武家政権と二つの政権が成立した後、鎮西で退避していた栄西が最初に進出したのは鎌倉であった。
その栄西の鎌倉での沙汰が初めて見られるのは『吾妻鏡』正治元年(1199)9月26日の条で、幕府において不動尊供養の導師を勤めたとあり、既にこの年の正月に没した源頼朝の冥福を祈る供養に、栄西の縁戚で幕府の御家人となっていた宗像氏のはからいで赴いたものとされる。
ここで見逃せないのは、栄西が建久9年(1198)に禅宗こそ護国に必要であるとの『興禅護国論』を著し、そのためには戒律の復興が不可欠であると強く主張していた事で、南都北嶺が中心の「王法仏法」に代わる新たな仏教を鎌倉幕府も模索していたと思われる。
『興禅護国論』には、栄西が宋から帰国する前年の建久1年(1190)第16代天台座主となった前大僧正公顕が南都受戒であったとの理由で堂衆の抵抗で放逐されたことなど、学匠と堂衆間で日常的に闘争が繰広げられていた事から、僧風の粛正を期すだけではなく、叡山の天台とも一線を画す気概も込められていた。
鎌倉からの招請はこのような栄西の姿勢を評価したものであり、栄西自身にとっても叡山の騒動から少しでも遠ざかって興禅を展開したいという思惑と一致したのである。
鎌倉で頼朝の冥福を祈る不動尊供養の導師を勤めた翌年には、北条政子が施主となり、頼朝の父・義朝の邸跡後の寄進を受けて栄西を開祖とした寿福寺を造営され、ここに政子だけでなく二代将軍頼家からの信頼を得ることになり、その頼家は朝廷と幕府との和合策として建仁2年(1202)に京に栄西を開祖とする建仁寺の建立を推進する。
この構想を受けて、まだ鎌倉に留まっていた栄西は、叡山の眼下に位置する新寺という性格上、先ずは、叡山対策として新寺を純粋の禅寺とする事に慎重な態度で臨み、禅宗・真言宗・天台宗の三宗を併設する旨を朝廷に申し出て宣旨を仰ぎ、いわば朝廷と幕府の保証の下に三宗をおいて叡山の出方を待つというしたたかな姿勢にでている。
しかし栄西が建仁寺を禅宗に限定しなかったのは上に挙げた叡山対策だけではなく、京都に公家政権、鎌倉に武家政権の樹立をみたからには、叡山に代わる新しい仏教の総合道場を京に造営する必要を打ち出したのであり、元久2年(1205)に建仁寺が官寺に列せられたことで彼の望みはほぼ達成されたといえる。
齢65歳にして栄西はやっと京と鎌倉への二都進出が実現したことになるが、その翌年には、東大寺復興事業の指揮を執った重源が寂するに際して、栄西から菩薩戒を受けた事もあり、栄西は勅命によって重源から東大寺大勧進職を引き継いだ。
その後は、承元3年(1209)に白河法王建立の朝廷の御願寺の象徴といえる法勝寺の九層塔が焼却した際には勧進職の勅命を受けて復興の陣頭指揮を摂り、建保3年(1215)に75歳で寂するまで、京と鎌倉を行き来しながら『喫茶養生記』『入唐(にっとう)縁起』などを著したたが、本格的な禅宗の確立は入宋後一時栄西の建仁時に身を寄せた道元の出現まで待たなければならなかった。
上図は栄西画像(建仁寺両足院蔵)と栄西自筆書状(個人像)
(『人物叢書 栄西』多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館より)
参考文献は以下の通り。