後白河院と寺社勢力(69)渡海僧(13)栄西7 乱世の流儀5 鎮

 栄西の2度目の入宋が5年もの歳月を要したのは、平家が滅亡し京と鎌倉に二つの政権が成立したからには、「王法仏法」の一端を担って鎮護国家を祈念をする従来の仏教に代わる新たな仏教を興す必要があり、それには、インド・中国に渡って本来の仏教を摑み直すしかないと考えたからであった。


 しかし、入宋してみればインドに渡る道は塞がれており、であれば、博多の宋人通事から聞かされていた宋で盛んな禅宗を極めるべく、かねて耳にしていた虚庵(きあん)を天台山万年寺に訪ね、その虚庵に従って天童山へ移動し、結局は、5年の歳月を費やしてこの師の下で臨済宗黄童派の禅を修めて帰国したのである。


 建久2年(1191)に宋から帰国した栄西は、鎮西のあちこちで禅宗の布教を行いながら、平家滅亡後没官領となった宗像社が源氏の領地となり、大宮司の息子・氏国が源氏の御家人に取り立てられたこともあって、建久6年(1195)に筑前博多に聖福寺を建て、その折、この寺が源家の祈祷所で、かつ鎮護国家の道場として建立された旨を頼朝に言上している。


 このような栄西の活動は叡山の衆徒を甚く刺激し、聖福寺を建てた建久6年には叡山の衆徒が「新宗を唱える者」との名目で栄西の活動の停止(ちょうじ)を朝廷に訴えたことから、栄西は時の太政大臣九条兼実か)に召還され喚問されている。


 禅は入唐僧で叡山の開祖・最澄から円仁、円珍、近くは入宋により禅を受けた徐ヘ然・成尋にいたるまで受け継がれて叡山の教義の一部となっていたことから、栄西はこの喚問に「既に伝教大師最澄)によってわが国に伝えられている禅は決して新宗ではないばかりか、禅の教えを否定する事は大師の教え、ひいては大師によって立てられた天台宗そのものを否定するものだ」と抗弁している。


 その後の栄西が、正治元年(1199)に幕府の招きで鎌倉に下向するまで筑前に退避していたのは、「菩薩たるものは、究竟(くっきょう)の道理として、たがいに相是非しないものである」との姿勢からでたもので、建久6年から正治元年にかけて記された栄西の『出家大綱』によれば、


 「もし人から謗られ非難されてもそれに反論して相手の過失を明らかにすれば、その相手をして人を誹謗するという過失におとしいれることになるから、じぶんはそのようなことはしない」という意味であるが、私には捲土重来を期する栄西の戦略に思えて仕方が無い。


参考文献は以下の通り。

『鎌倉仏教』 田中久男 講談社学術文庫

栄西 喫茶養生記』 古田紹欽 講談社学術文庫

人物叢書 栄西』 多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館