後白河院と寺社勢力(61)渡海僧(5)重源 5 運慶と快慶 3 

  さて、話を東京国立博物館で開催した「東大寺の大仏」展に戻すと、会場には快慶作の『僧形八幡神坐像(勧進所八幡殿)』『阿弥陀如来像(俊乗堂)』『地蔵菩薩立像(康慶堂)』の3作品が展示されていた。


 いずれの作品も線の切れが美しく、ささくれたこちらの気持ちを柔らかく解きほぐしてくれるようなたたずまいだった。私の気持ちを鎮めてくれる何ともいえない空気に魅せられて、優美な仏像の一つ一つに足を止めじっくりと向き合いたい気分にさせてくれたのだ。 仏像に一目惚れとはおかしな表現だが、その時の私は、正に三つの仏像にそれぞれ一目惚れして立ち去りがたい気分になっていたのだった。


 思うに重源は、東大寺復興にあたって、東大寺の象徴という以上に荒廃した国家の復興の象徴とも言える中門の二天像を慶派の棟梁・康慶でなく、また康慶の長子運慶でもなく快慶を抜擢し、さらには、重源の東大寺復興にこめた信仰心の発現ともいうべき『僧形八幡神坐像(勧進所八幡殿)』(下図左)と『阿弥陀如来像(俊乗堂)』(下図右)は快慶だけに造らせている。


        



 平家という正に武者によって焼討ちされた東大寺復興は、内乱に次ぐ内乱と相次ぐ飢饉により荒廃した国土、疲弊した民の心を復興させる事業でもあり、何よりも疲弊した人々の心を慈しみ、労わり、復興に向けて一つに纏め上げてゆくうえで、武者の世に自らの独創性を重ねた作風の運慶ではなく、快慶を重用した重源の気持がこれらの作品からも伝わってくる。


ところで快慶の仏像から立ち昇る「慈しみ」と「労わり」の空気は一体何処から生じているのであろうか。


 東大寺復興において重源は勧進活動の拠点として幾つかの別所をを設け、播磨別所とされる浄土寺(兵庫)阿弥陀三尊立像、伊賀別所とされる新大佛寺(三重)阿弥陀三尊立像は快慶が造仏し、他にも難波別所に安置した丈六(じょうろく:一丈六尺約480センチ)の阿弥陀三尊像も快慶作の可能性が高いとされており、別所が大衆への布教活動の拠点であった事を考えれば、快慶は重源の依頼で造仏に関わっただけではなく布教活動の面でも重源と行動を共にしていたことは十分考えられるのである。


 それを解き明かす鍵としては、重源は醍醐寺出身で浄土信仰に篤く、自ら南無阿弥陀仏と称し信徒にも阿弥陀仏号を付与し、他方快慶は、建久3年(1192)に後白河法皇の追善のために制作された醍醐寺弥勒菩薩立像』(下図)から「巧匠安阿弥陀仏」の称号を使い始めて、それ以降の作品には「仏師」ではなく宋風に「巧匠」を用いて「安阿弥陀仏」と銘記しているものが多い。


         


 その三年前の文治5年(1189)に制作され現在ボストン美術館に収蔵されている『弥勒菩薩』制作時には「仏師快慶」と銘記されていた事を考え合わせると、この二作品の間に快慶が重源へ深く傾倒し、熱心な念仏信仰の信者となった可能性が高く、敬虔な信者としての姿勢が彼の作品にあのような「慈しみ」と「労わり」の佇まいを表現させたのではないか。


 ともあれ、国立博物館では運慶の作品が展示されていなかったので二人の作品を間近に見比べる私の目論みは外れたが、重源が何故東大寺復興に快慶を重用したのかについては少し理解が深まったように思う。


写真を含めた考文献は『日本美術全集10 運慶と快慶』講談社