永万元年(1165)に蔵人所小舎人惟宗兼宗によって「燈炉以下鉄器物供御人」に組織された鋳物師たちは、左方供御人、右方供御人、東大寺─大仏方供御人の3つの集団に分かれ、主として畿内を中心に西国よりの日本列島で商売を展開していた。
中でも左方供御人の「左方燈炉作手(つくて)」は、大宰府に属していたとされる九州一円を舞台とする鎮西鋳物師を組織化して、12世紀後半から廻船に原料鉄や鍋、釜、鋤、鍬などを乗せて諸国七道を往反した事から「廻船鋳物師」と呼ばれるが、嘉禎2年(1236)には20人の「本供御人番頭」に率いられ、宝治2年(1248)には「左方鋳物師惣官」として中原光氏の名が見られる。
他方、東大寺鋳物師集団は、寿永2年(1183)後白河院の命により東大寺復興を手がけた重源に抜擢され、大仏頭部の鋳造に力を発揮した草部(くさかべ)是助の血を引く草部姓を惣官とする宣旨を得、承元4年(1210)には院宣により惣官職の子孫相伝を保証され、嘉禎年間(1235〜37)に蔵人所牒(※1)を賜って「東大寺─大仏方供御人惣官」職を代々受け継ぎながら、彼らも諸国七道往反の廻船鋳物師の道をとっている。
ここで興味深いのは、何故「左方供御人」と「東大寺─大仏方供御人」が共に廻船鋳物師として活動するようになったかであるが、これは先にあげた左方鋳物師惣官の中原光氏が他方で「左方兼東大寺鋳物師惣官」を名乗り、自ら「先祖相伝」と称して東大寺鋳物師惣官職を草部助時と争った経緯などから、左方鋳物師と東大寺鋳物師が近接していたからではないかと思われる。
(※1)牒(ちょう):文字を書き記した木の札。簡札。文書。「符牒・通牒」
参考資料は
「海と列島の中世」網野善彦著 日本エディタースクール出版部
「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店)