後白河院と寺社勢力(54)商品流通と政治権力(12)鉄2 供御人

  後白河院の時代には、鉄製品が高貴な身分だけでなく、一般庶民の暮らしにも農具や炊事用具として深く浸透していた事を全快述べたが、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101022
 生業として鉄製品を扱っていたのは鋳物師(いもじ)と呼ばれ、彼らの多くは鉄商人も兼ねて、原料鉄、鋳物製品、鍛冶製品を伴って諸国を遍歴して売買・出職(※1)に携わっていた。

 
 このような鋳物師を永万元年(1165)に、燈炉を天皇に毎年貢納する奉仕をもって「蔵人所燈炉以下鉄器物供御人」に設定したのは、蔵人所小舎人(※2)惟宗兼宗であり、彼は先ず、河内国丹南興福寺領日置荘在住の名主クラスの鋳物師から請文を取って「本供御人番頭」の資格を与え、その番頭を指揮して諸国に散在する鋳物師に短冊(鑑札)を配らせて鋳物師の供御人化を図ったのであった。


上記は「『紫式部日記絵巻』で描かれた燈炉「院政期の絵画展カタログ」より)。


 ところで、蔵人所小舎人・惟宗兼宗によって「本供御人番頭」という身分を与えられた河内国丹南郷の鋳物師たちは何を得たかといえば、興福寺領日置荘住人として領主に負っていた雑役から免除され、畿内(※3)はもとより諸国七道(※4)を往反できる自由な交通許可証を手にし、その上に京中市町での鉄売買が認められたことである。

 
律令制下においては、交通路としての道・津・泊・宿は「公」とされて天皇が支配し、中世前期からは、西日本は天皇、東日本は将軍が支配して、営業税・交通税の設定並びに、通過許可書などの発給権を掌握していたので、塩や生魚を扱う商人や芸能者は、自らの職能に即した産物や技能を天皇に奉仕する「供御人」という下級官人としての身分を得て、諸国を自由に往反出来る通行許可書を得る必要があったのである。


 紙や木材と異なり鉄は錆びれば砥ぎ、こわれた鍋・釜や農工具は修理し、古くなれば回収して再生される特質を有していた事もあって、鋳物師の行動範囲は生魚商人や芸能者よりも広く、それこそ諸国の津々浦々までに及ぶ事から、鋳物師にとって「畿内はもとより諸国七道を自由に往反できる特権」は生業を全うする上で得難いものであったといえる。


(※1)出職(でしょく):他に出かけていってそこで仕事をする職業。左官・屋根職など。
    反対語は居職(いじょく)。

(※2)舎人(とねり):律令制の下級官人。

(※3)畿内:大和、山城、河内、和泉、摂津の5ヶ国

(※4)諸国七道:東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道
 

参考資料は以下の通り

「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店

「海と列島の中世」網野善彦著 日本エディタースクール出版部

「中世再考」網野善彦著 講談社学術文庫