後白河院と寺社勢力(53)商品流通と政治権力(11)鉄1 鉄と貴

 後白河院時代の暮らしに鉄製品がどの程度浸透していたのであろうか。先ず、高貴な方たちの鉄製品との関わりを、後白河院の命によって描かれたとされる『年中行事絵巻』の「真言院御修法(みしほ)」と「大饗」の場面から見てみたい。

  


  「真言院御修法」は正月8日から宮中の真言院で行われる修法で、天長6年(829)に空海が唐の清龍寺の風をうつして、承和元年(834)から宮中で始めたとされているが、正面の五大尊の仏画の前には香炉・六器などの鉄製品が並べられている。古代から中世にかけての朝廷・院宮(上皇法皇女院三后東宮の総称)・摂関家が盛んに寺院建立や仏事に励んでいた事を考えると、仏具としての鉄製品の需要は半端ではなかったであろう。


   


 「大饗」とは、摂関家が正月2日に親王・大臣以下の公卿・殿上人を自邸に招く慣例の儀式で、この絵は、永久4年(1116)に内大臣藤原忠通邸で催された大饗図と一致するとされ、客人をもてなす準備の煮炊きで釜が描かれ、当時の高級貴族の暮らしが垣間見える。


 次は平民と鉄製品との関わりについて「中世再考」(網野善彦著 講談社学術文庫)から代表例を引用してみた。


 


 最初にとりあげるのは平民百姓と鉄製品の関わりで、嘉応2年(1170)に興福寺領の摂津国河南桜荘の住人が差し押さえられたときの雑物注文(財産目録)の中に、農具として犂(すき)・鍬(くわ)、家具として金輪、その他に武具として弓・胡籙(やなぐい)が含まれていた(京都大学文学部所蔵『一条院文書』から)。この住人は平民百姓の中でも名主クラスの上層部に属するから武器を所有していたのであろうが、この財産目録から、煮炊きに使う金輪(五徳)や農具としての犂、鍬が12世紀後半の平民百姓の間では広く使われていた事がみてとれる。


 さらには『東大寺文書』には、康和3年(1101)、大和国石名荘住人村永元が、代官の役割をしている僧侶・知事延賢に馬鍬1具・手斧1支を奪い取られた訴訟文書が納められ、『勝尾寺文書』にも、寛喜元年(1229)に摂津国萱野郷民が、山で勝尾寺の衆徒によって「かま・よき(斧の別名)」を奪い取られたという事例が納めれていることからみても、農業・林業に従事する者たちの間で道具としての鉄製品が広く使われていたことが分かる。


 また、下層に属する者たちと鉄製品とのかかわりはどうであったかといえば、著者は、遊女(あそびめ)が暮らしの中で釜を使っていた話として、『古今著聞集(※1)』から、遊女の宿に鋳物師(いもじ)と山伏と中間の三人が宿泊した時に、遊女が鋳物師に、自分は今は[かたかま]を持っているが、[わきかま]もほしいので、それを作ってくれたら一緒に寝ても良いと誘いをかけた話を紹介している。

 どうやらこの遊女は釜は一つではなく、[かたかま]と[わきかま]の二つがなくてはならないとかんがえていたようで、二つ目の釜を鋳物師に作らせて、家の竈(かまど)に二つの釜をそなえたかったのであろうが、この話は、農具・工具としてだけでなく、一般庶民の家財の中に鉄器製品が含まれていたことを示している。


ともあれ、後白河院の時代には、質と量はともかくとして、貴賎の暮らしに鉄製品は幅広く浸透していたようだ。 
 
(※1)古今著聞集(ここんちょもんじゅう):鎌倉時代の説話集。20巻30編からなる。橘成季撰。(建長6年(1254)になる。