後白河院と寺社勢力(46)商品流通と政治権力(4)菓子3 神人へ

 京での栗の売買を目指す栗作御園供御人を自らの支配下に置こうと、『三条以南都鄙供御人等』規則を振りかざす御厨子所に対して、「われらは往古以来蔵人所に属して供御人役を備進しており、山科家殿御使並びに御厨子所使を名乗る貴方方こそ、我ら丹波国栗作御園の後から生まれた新座の輩ではないか」と切返した栗作御園供御人であったが、
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 彼らにとって、蔵人所に属するか御厨子所に属するかは、いずれもが供御人であるかぎりは、供御人身分に伴う特権は相殺されて旨味のあるものではなかった。


 そして、南北朝時代の康永2年(1343)11月1日の『祇園執行日記』(※1)が「祇園社に『末日左方菓子座神人』と称する者が塩小路烏丸屋にいた」と記すように、京の菓子商人は大寺社の権威と庇護を求めて祇園社神人に靡き、御厨子所が支配していた『三条以南都鄙供御人等』型流通体制が大きく崩壊しつつあった事が読み取れる。


 やがて祇園社に属する「犀鉾神人」を名乗り、洛中・洛外における柑(※2)類の売買を独占する神人集団が出現するが、その彼らも、山科郷民が洛中で菓子売買しはじめると、天文4年(1535)にはそれを停止させるために朝廷に訴え、その後の天文9(1540)年には幕府に対しても訴えるだけの力を備えていた。


 ところでこの祇園社の犀鉾神人は、菓子だけでなく鳥も販売しており、その事に対して五条座(鳥三座の中の一つ)を支配する長の者が、天文14年(1545)に御厨子別当・山科言継(※3)に抗議をしたところ、言継は「この問題の担当は別当の私ではなく預(あずかり、管理担当)の高橋宗頼に属すること、また、祇園社の犀鉾神人の魚・鳥の売買は古くから認められている慣例である」と答えている。


 この事は、祇園社の犀鉾神人もかつては御厨子所供御人であったが、祇園社の神人に転身した後も、引続き御厨子所供御人としての権利も行使していた事を示している。


(※1)祇園執行日記(ぎおんしぎょうにっき):南北朝時代における京都祇園社(現在の八坂神社)の執行(寺の事務または法会を管掌する役職)の日記。祇園社社領支配についての記事や,同社に所属する座や神人(じにん)に関する記事,山門(さんもん)(延暦寺)との従属関係などの記事が見られる(「百科事典マイペディア」より)。現在は京都八坂神社が保管。


(※2)柑(かん):みかんの一種でやや小さいもの。柑子(こうじ)ミカンとも云う。


(※3)山科言継(やましなときつぐ):戦国時代の公家。内蔵頭(くらのかみ)・御厨子別当として皇室経済の維持に努めた。


参考資料は「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店