後白河院と寺社勢力(47)商品流通と政治権力(5)米

 中世に諸国から米を徴集・貯蔵して、朝廷を始め諸司への配給を司っていた役所は宮内省に属する大炊寮であったが、主として彼らは次に挙げる三つの機能を担っていた。


 先ず一つ目は朝廷の朝餉と昼御膳の米を賄う料所としての御稲田の管理、二つ目は諸司の朝夕の常食に充てる月々の粮である殿上米料所の管理、そして三つ目は米穀売買課役の管理であった。


 そのなかで、御稲田の管理は、後三条院治世の延久年間(1069〜1073)に山城、摂津、河内を供御料田に設定した事が発端となり、それ以降この三ヶ国が御稲田として定着したとされている。


 ここでちょっと興味深い事は、摂関家の威信を背景に積極的に荘園拡大を進めていた藤原忠実(※1)が、河内国御稲田を自分の荘園に取り込もうとした時に、これを不満とした供御人数百人が入京して朝廷・院に訴える事件を起こしていた事で、利に聡い大炊寮支配下の河内御稲田の供御人が、権門中の権門ともいえる摂関家の傘下入りを拒んだ事は、彼らの目は既に摂関家凋落の流れが見えていたのではないかと思わせるからである。


 そして、鎌倉時代に入ると京の米商人はいたるところに出現し、その担い手は諸社神人並びに四府駕與丁(※2)、諸公人、諸被官輿舁(※3)等」といわれるほど多方面から参入したが、彼らは生魚商人のように一箇所に集住する事は無く「洛中・河東・西郊」に点在していた。


 この状況を踏まえて大炊寮頭は、これら米商人を配下の供御人として取込もために積極的に動いて、元応元年(1319)に後宇多院院宣で「家別一課(約一石)の割合で大炊寮役を課す」という『米屋公事』を発するところまで漕ぎ着けたものの、四府駕與丁、諸社神人、諸公人、諸被官輿舁は、それぞれが本所とする権門を楯に、あるいは神人身分を振りかざして、言を左右にして新しい公事に従おうとはせず大炊寮から度々非難されている。


 そうこうして大炊寮が米商人の支配に手間取っているうちに、御稲田の供御人に先んじて、天皇のお身体を輿に載せて運ぶ足の役割を担う四府駕與丁が、掌握している運送独占を最大限に発揮してて京における米流通の中核としてのし上り、その後から神人、被官輿舁などが活発に米商売を展開した事もあって、大炊寮の米商人の供御人化は実現しなかた。

 

(※1)藤原忠実(ふじわらのただざね):関白師通の長男。鳥羽天皇摂政・関白を務めた。長男忠通を退けて2男頼長を氏の長者とした事で保元の乱の一因を作った。摂関家の威を最大限活用して積極的に荘園拡大に励み後に富家殿(ふけどの)とよばれた。


(※2)四府駕與丁(しふかよちょう):左右の近衛府兵衛府に属し、天皇の輿や神輿を担ぐ者。鎌倉中期以後、課税免除・専売権などの特権を得て運送業を中心に商業活動を行い座(駕與丁座)を組織した。


(※3)諸被官輿舁(こしかき):省の管轄下の寮・司に属して輿(こし)をかく人。

 
参考資料は「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店