琵琶湖畔の淡水魚を捕魚する漁師を京の六角町に呼び寄せ、供御備進の見返りに営業税を課して洛中の販売独占を与える 「六角町生魚商人」を組織した御厨子所が、更なる支配拡大を目論み、諸国から鳥、精進菓子(果物・雑采)を売買する商人を京の三条以南に招きよせ、供御供給の安定と新たな税収を目的とする『三条以南都鄙供御人等』の構想を打ち出したことは先回述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20100823)。
しかし、何時の世も新しい規則に抗う者は存在する。ましてや利害が直接からむとなるとなおさらで、殊に、幕府と朝廷が綱引き状態の動乱期においては、手ごわい抵抗勢力が出現するのも致し方なく、新規則の推進者の厨子所もなかなか苦労したようである。
(1)日吉神人
『兼仲卿記』紙背文書(※1)の文永年間(1264〜75)の記録によれば、当時は既に日吉神人と称して御厨子所の警告を無視して勝手な振る舞いをする菓子供御人が出現していたが、院庁が「神人であっても京市中で菓子売買を行う者は御厨子所の命に従うべきである」との院宣を下し、その上で彼らの神人職を剥奪して検非違使庁に出頭させられている。
(※1)紙背文書(しはいもんじょ):裏文書(うらもんじょ)ともいう。古文書が反故として、他の書類の料紙に利用されたもの。紙が貴重だった時代には役目を終えた文書は裏を使っていた。
(2)摂関家墓守
嘉禎の中頃(1235〜38)に、大和国辰市の藤原鎌足を祀る多武峯大明神(※2)の墓守を名乗る蒟蒻(こんにゃく)売が、摂関家の権威を楯に供御を拒否したため、御厨子所は「摂関家の御墓守といえども、辰市住人といえども、京市中で蒟蒻売買を行う者が朝廷への供御をするのは当然である」と断じている。
つまり、御厨子所は洛中で蒟蒻を売る限りは全てを菓子供御人とみなし、彼らの支配に従うのは当然とみていた。
(※2)多武峯大明神(とうのみねだいみょうじん):奈良盆地南東端にある山に藤原鎌足を祀る談山(だんざん)神社があり多武峯大明神と呼ばれる。
(3)御園供御人
時代が下って明徳3年(1392)9月には、蔵人所(※3)に属する丹波国栗作御園(※4)の供御人らが「栗売買」を洛中で行おうとして西七条に入った所で、「山科家殿(※5)御使並びに御厨子所使」と名乗る一団によって「栗駄(※6)別荷物用途」を懸けられて拒否しようとした栗作供御人らが腰刀を奪われている。
この無礼な振る舞いに対して、栗作御園供御人たちは「われらは往古以来蔵人所に属して供御人役を備進している」と主張し、さらに「むしろ、山科家殿御使並びに御厨子所使を名乗る側こそ、我ら丹波国栗作御園の後から生まれた新座の輩ではないか」と山科家殿御使並びに御厨子所使に切返している。
これは京で栗を売ろうとする蔵人所支配下の丹波国栗作御園の供御人に対し、『三条以南都鄙供御人等』規則を楯に、御厨子所が供御備進と営業税を勧告したわけで、ここに三条以南の商業地域における供御人支配を目論む御厨子所の意図が露骨に示されている。
(※3)蔵人所(くろうどどころ):平安初期に設置された令外官のひとつ。天皇直属の役所として宮中の諸行事を取り締まり重要度を増していった。
(※4)御園(みその):御厨(みくりや)ともいい、古代、中世、皇室の供御を献納した皇室の領地。
(※5)山科家(やましなけ):藤原北家四条流。山科言継(やましなときつぐ)は戦国時代、内蔵頭・御厨子所別当として皇室経済の維持に努めた。
(※6)駄(だ):馬に載せた荷物。
参考資料は「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店)