新古今の周辺(2)鴨長明(2) 青年歌人 晴れの歌合

方丈記』と共に鴨長明が晩年に記した『無名抄』には歌人として初めて晴れの場に連なった時の冷や汗ものの体験を次のように記している。

≪ 5 晴れの歌を人に見せ合すべきこと

晴れの歌はかならず人に見せ合はすべきなり。わが心一つにては誤りあるべし。予、そのかみ高松の女院(※)の北面(きたおもて)に菊合(きくあわせ)ということ侍りし時、恋の歌に、

人しれぬ涙の川の瀬を早み崩(くず)れにけりな人目つつみは

と詠めりしを、いまだ晴れの歌など詠み慣れぬほどにて、勝命入道に見せ合せ侍りしかば、「この歌、大きなる難あり。御門(みかど)・后の隠れた給ふをば、崩ずといふ。その文字をば、崩ると読むなり。いかでか院中にて詠まむ歌にこの言葉をば据うべき」と申し侍りしかば、あらぬ歌を出だしてやみにき。その後ほどなく女院隠れおはしましきにき、この歌のさとしとぞ沙汰せられ侍らまし≫

長明は勝命入道の忠告に従って別の歌を歌合の場で詠み難を逃れたが、翌年に女院崩御されたので、もし、あの時、この歌を詠んでいたら「この歌が前兆だった」と噂されたであろうと冷や汗をかいたのであった。

これは長明が21歳の安元元年の出来事で、源有房(正4位下右中将)・平親宗後白河院后建春門院弟正二位権中納言)・建礼門院右京大夫など錚々たる歌人に交じって長明が会せたのは、この高松院こそ二条天皇在位の中宮時代、7歳の長明に従五位下を叙爵した力強い庇護者であったからである。

しかし、その頼みとする高松院も歌合いの翌年6月に36歳の若さで崩御して、既に父を失って絶望状態にあった長明の前途をさらに暗くしたのであった。

(※)高松院:鳥羽天皇の皇女で妹子(しゅし)内親王、母は美福門院。平治元年(1159)に二条天皇中宮となり、翌永暦元年8月に重病の為に出家、応保2年2月に院号を賜り高松院と称した。


参考文献:『無名抄〜現代語訳付き』 鴨長明 久保田淳訳注 角川文庫、  
     
      『鴨長明』 三木紀人 講談社学術文庫