隠居Journal:大手町ビルの思い出(4)(C.)と呼ばれた女性プログラマー

プログラムに.(ピリオド)はつきものだ。しかし私が働いていた計算センターでは誰もピリオドなどという回りくどい読み方はしない。皆(ポツ)と呼んでいた。

 

ところで、私がキーパンチャー室から卒業して計算センターの受付を担っていた頃、C.(シーポツ)と呼ばれる女性がいた。

 

彼女はトップクラスの女子大を卒業したプログラマーで、長身で贅肉のないスリムな体型、身体の動きと頭の回転と言葉のテンポが歯切れよく、それだけで彼女の頭脳の明晰さを感じさせていた。

 

当初彼女は「シーちゃん」と呼ばれていたのに、いつしか「シーポツ」と呼ばれるようになり、彼女自身も自然にその名前を受け入れていた。

 

彼女は特に年下の男性プログラマーにとっては頼もしい先輩として慕われていて、受付のカウンター越しに彼女が彼らにいろいろアドバイスしている姿を何度も眼にしたものだった。

 

また、彼女はプログラマーとして優秀なだけではなく、折に触れて会話の中で流暢な英語が飛び出し、それがわざとらしくなく自然で、「あ、あ、彼女は英語も堪能なのだ」と、私はうらやましく思ったものだった。

 

あの頃はコンピューター産業の黎明期にあたり、日本で唯一IBMモデル360の大型計算機を備えた私の勤務していた計算機センターの中でも、とりわけ、プログラマーの職場は自分たちがパイオニアという意識が満ちて、プロフェッショナルとしてお互いを認め合っていたのか男女間の雰囲気も自由闊達であった。

 

それは、当時の、端から職場の戦力として認められず、会議の資料準備はさせられるがそれには参加できず、せいぜい職場の花としてお茶くみ、机掃除、そして、電話番しか任せてもらえなかった一般の女性の職場からは別世界であったといえる。

 

ところが、ある時から彼女の姿を見かけなくなった。どうしたのかな、と、気にしていたところ、彼女がプログラマーのスキルと英語力を生かして新天地を求めてオーストラリアに飛び立ったことを職場の噂で知った。

 

それは、オーストラリアが「ワーキングホリデー」を1980年にスタートさせるかなり前のことであった。

 

写真は大手町ビル