わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾くまもなし
【現代語訳:私の袖は、引き潮の時にも見えない沖の石のように あの人は知らないでしようが
悲しみの涙で乾くひまもありません】
この歌は『小倉百人一首』で知られる二条院讃岐の作だが、彼女については改めて採りあげることにして、ここでは源頼政の娘として簡単に触れたい。
二条院讃岐の生没年は未詳だが、永治元年(1141)頃に生まれ、若い頃に二条院の女房となり、院の崩御後は九条兼実の娘で後鳥羽院中宮(宜秋門院)に仕えて健保5年(1217)に76歳で没したとされる。
彼女の歌人としての歩みは二条院の内裏花壇に始まり、上記の歌はその頃に詠んだもので「沖の石の讃岐」と称されるほど高い評価を得て『千載和歌集』に採られた。また、父・頼政や女房の小侍従、殷富門院大輔と共に20年間に亘り俊恵が白川の僧坊で催した歌林苑の会衆(えしゅう)であった。
そして、永万元年(1165)頃に藤原顕輔が私撰した『続詞花集』に入集したのを始め、後鳥羽院花壇では正治2年(1200)の「正治初度百首」、建仁元年(1201)の「千五百番歌合(※1)」に名を連ね、『千載和歌集』に4首、『新古今和歌集』では式子内親王、俊成卿女に次ぐ16首が採られて当時を代表する女流歌人の一人となった。
頼政の武士歌人の位置を受けついだのは息子・仲綱であるが、歌人・頼政の資質を引き継いだのは正に二条院讃岐であった。
次に掲げるのは「新古今和歌集」からの1首採である。
新古今和歌集 第6巻 冬 590
千五百番歌合に、冬の歌
世にふるは 苦しきものを まきの屋に やすくも過ぐる初しぐれかな
【現代語訳:この世を生きてゆくのは苦しいことなのに、真木の屋にいかにも心安く音をたてて通り過ぎてゆく初しぐれですね】
(※1)千五百番歌合:後鳥羽院が当代の30人の歌人に100首ずつ詠進させて千五百番とし、俊成、定家、良経、顕昭、慈円など十人の判者に判をさせた歌合。建仁2年(1202)から翌年にかけて成立。『新古今和歌集』の和歌資料となった。