2008年6月の歌舞伎座での出来事だった。
夜の部の最初の演目が終わり、私は三階ロビーのソファに向かってダッシュした。幸い三人掛けの右端を確保できたので自宅から持参した弁当を広げた。左端では私より少し年長の女性が幕の内弁当を開いていたが、間の一人分のスペースが適度な距離を生み、落ち着いた気分で黙々と箸を動かしていたのだが、
「ここ座れます?」と私たち二人の間に腰を下ろしたのはパンタロンスーツ姿の小太りのシニアの女性。彼女は直ぐに大きな紙袋から市販のお握りを取り出して頬張り、次にはビニール・パック入りの茹で枝豆を取り出した。一体どういう人なのかと横目で見ていると、
「貴方の箸袋珍しいわね」と私に話しかけ、私が一言二言反応したところで、彼女はいきなりスーパーで買った透明パック入りのカット西瓜を取り出し「これ量が多すぎるのよね。おひとついかが」と有無を言わせない調子で差し出すので、私と左端の女性は生暖かで果汁がポタポタ垂れる西瓜をお裾分けされる破目に。
私たちにカット西瓜を押しつけた女性は「私81歳なの、今でも現役」と誇らしげに自らを語るので、こちらとしては「お若いですね」と答える他はなく、それに満足した彼女は「貴方は」と私に聞く。
私は内心で(現役の頃は1階席で木挽町辯末のお弁当を買って観たものだが)と思いながらも口に出さず、「私は64歳」と答えると「まだまだね」とバッサリ切り捨てて、返す刀で左側の女性に矛先を向けるが、賢い彼女は笑みを浮かべただけで黙殺。
81歳で現役を誇る女性はさらに続けて「私は勉強のために歌舞伎を見ているの。これから百歳までも見に来るつもりよ」と高らかに宣言し、私が「贔屓の役者だけ追っかけるの」と応じると、「歌舞伎はそんなもんじゃない。役者は皆命がけでやっているのだから」と一刀両断に切り捨てる。
私はお目当ての片岡仁左衛門の「身替座禅」を見終えると次の演目を観ずにそそくさと劇場を後にしたのだが、こういう歌舞伎の見方は邪道になるか。