新古今の周辺(35)鴨長明(34)歌論(6)今の歌体は学び難く秀

今の歌体(新古今の体)と中頃の歌体の論争の主題が「どちらが学びやすく秀歌を得やすいか」に変わった事を鴨長明は『無名抄』で次のように述べている。

71 近代の歌体 6

先ず「今の歌体と中頃の歌体のどちらが詠みやすく秀歌を生みやすいか」との問いに対して、

「中頃の歌体は学びやすいが優れた歌を得るのは難しい。何故なら、中頃の歌体は詞が古びて新鮮さを欠くため趣向中心に凝らざるを得ない。それに対して今の歌体は習得するのは容易ではないが、よく学んで深く本質を会得すれば、歌の姿が新鮮なので目新しく、その上に歌の心を工夫すると興趣のが深くなるからである」と答えている。

さらなる問の、「そのようなことであれば、いづれにしても良いものは良く、悪いものは悪いということになる。これから歌を学ぶ者はわれもわれもと競い合うであろう。で、あれば、どのようにして優劣を決すればいいのであろうか」に対して、

答えは次のようなものであった。
「この論争に必ずしも優劣を決める必要はない。今の新古今の体と中頃の歌体、いずれの側にも良い歌を詠めれば良いのだと知ることが一番大切なのではないか。

但し、寂蓮入道(※1)は『この論争を容易に決着をつける方法がある。その理由は、書道を習うにも下手な人の字は真似しやすく自分より上手な人の字は真似しにくい。そうであれば、われら(寂蓮たち今の歌体の歌人)が詠むように詠めと云えば、中頃の歌人の季経卿(※2)・顕昭法師(※3)たちは幾日案じてもとても詠む事はできないであろう。しかし、われ(寂蓮)が彼らの詠むように詠むには、ただ、筆を墨に濡らせば、すらすらと上手に歌を詠むことができる。これで決着がつくであろう』と申していた。

しかし、他の人の事は知らないが自分自身の体験から述べれば、中頃の歌人が数多集った歌会(歌林苑(※4))に連なって、参加した人たちの歌を聴いていた時は、彼らの詠む歌で自分自身が思い至らない趣向はあまりなかった。そればかりか、自分がその後をつづけようとする歌よりも勝っていると感じる事もあったが、いささかも、自分の理解を超えるといった歌に巡り合うことはめったにありませんでした。

しかし、御所の歌会(※5)に連なるようになって、全く思いもつかない歌を歌人の一人一人が詠んでいるのを聴いて、歌の道はもはや底深く際限のないものになってきたと、空恐ろしく感じるようになってきました」と。

(※1)寂蓮入道:鎌倉初期の歌人、保延5年(1139)頃〜建仁2年(1202)。六十余歳没。俗名藤原定長。藤原俊成の甥でその養子となるが定家が生まれて30歳頃に出家して諸国を行脚し歌道に精進した。御子左家の中心歌人として活躍し後鳥羽院設置の和歌所寄人となり『新古今和歌集』の撰者に選ばれたが撰進前に没した。【六百番歌合】での顕昭法師との論争は有名。俊成の歌風をよく伝え幽玄体の和歌を詠んだ。家集『寂蓮法師集』。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に117首入集、その内『新古今和歌集』に35首入集。

(※2)季経卿:藤原季経。天承元年(1131)〜承久3年(1221)。享年91歳。
藤原顕輔の息子。家集「季経入道集」。『千載和歌集』には入集しているが『新古今和歌集』の入集はゼロ。

(※3)顕昭法師:平安末期から鎌倉初期にかけての歌学者、歌人。法橋。大治5年(1139)頃生まれ、承元3年(1209)までは生存。藤原顕輔の猶子で義弟の清輔と共に六条家の歌学を確立した。藤原俊成の【六百番歌合】の判詞を批判して≪顕昭陳状≫を提出。『千載和歌集』その他の勅撰和歌集に39首入集、うち『新古今和歌集』に2首入集。

(※4)歌林苑:長明の歌の師で六条源家の俊恵が白川の僧房で開いた歌会。藤原隆信・二条院讃岐・冨門院大輔・藤原顕輔源頼政などが加わっていた。

(※5)御所の御会:長明が和歌所寄人として参加した後鳥羽院御所での歌会。

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫