大輔と小侍従の後鳥羽院歌壇での評価の高さを知るうえで『新古今和歌集』に大輔は10首、小侍従は7首入集していると共に、二人がそれぞれ「殷富門院大輔集」、「小侍従集」と自分の歌を集めた家集を著していることが挙げられる。以下に二人の『新古今和歌集』入集歌を2首ずつ紹介したい。
≪殷富門院大輔(いんぷもんゐんのたいふ)≫
巻第八 哀傷歌
久我(こがの)内大臣(源雅道)春の頃うせて侍りける年の秋、土御門(つちみかどの)内大臣(源通親)、中将に侍りける時に、つかはしける
790 秋深き、寝覚めにいかが、思ひ出づる はかなく見えし 春の世の夢
【現代語訳:秋も深まったこのごろの寝覚めに、あなたはどのようにお思い出しのことでございましよう。お父様が春の世に見る夢のようにはかなくお亡くなりになったというお悲しみを】
巻第十三 恋歌二
題しらず
1228 何かいとふ よもながらへじ さのみやは、憂きにたへたる 命なるべき
【現代語訳:どうしてそうお嫌いになるのですか、とても生き永らえることはできないわたしですのに。命はそれほどつらさに堪えていられるものでしようか。】
≪小侍従≫
巻第六 冬 歌
百首歌たてまつりし時
696 思ひやれ やそぢの年の 暮れなれば いかばかりかは 物はかなしき
【現代語訳:思いやってもください、今年は八十もの齢を重ねた年の暮れなのですから わたしのものがなしさはいったいどのようなものであるかを】
巻第十三 恋歌二
題しらず
1227 つらきをも 恨みぬわれに ならふなよ うき身を知らぬ 人もこそあれ
【現代語訳:あなたの薄情な仕打ちをも恨まないわたしに馴れて 女は皆そうなのだと思わないで下さい。捨てられる憂き身だと悟らない女もいるかもしれませんから…。】
さらに私が特に二人に注目するのは大輔が70歳、小侍従が80余歳と共に当時としては驚異的な長寿を全うしたという事である。
特に小侍従については、上に掲げた『新古今和歌集』696番の歌が示すように、長い間の宮廷女房から退いて出家後20年を経た頃に後鳥羽院発企の『正治初度百首』に出詠した時は80歳を過ぎていたのである。
(※1)大輔(たいふ):。生没年未詳。藤原信成の娘。正治2年(1200)頃70歳頃に没したか。家集「殷富門院大輔集」を著す。
(※2)小侍従(こじじゅう):生没年未詳。石清水八幡宮別当紀光清の娘。建仁元年(1201)に80余歳で生存か。二条天皇・太皇太后藤原多子及び高倉院(後白河天皇王子・高倉天皇)の女房。家集「小侍従集」を著す。
参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫
『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社