新古今の周辺(7)鴨長明(7) 師・俊恵(3)父・源俊頼を語る

鴨長明は彼の歌の師・俊恵が偉大な歌人であった父・源俊頼について語った話を『無名抄』にいくつか記しているが、その中から一つ紹介したい。

27 貫之・躬恒(みつね)の勝劣

歌人でもあった三条太政大臣藤原実行(さねゆき)公が検非違使別当(※1)を勤めていた頃、やはり歌人の二条太宰権帥(※2)藤原俊忠(としただ)卿との間で、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね※3)と紀貫之(きのつらゆき※4)のどちらが優れているかを論争し合ったものの決着がつかなかったことから、白河院の御意見を伺うことにして奏上したところ、院から『私では判断できないから源俊頼などに聞いてはどうか』との仰せを受けて、2〜3日を経て俊頼が参内した時に俊忠卿が論争の初めから白河院の御言葉まで説明すると俊頼は度々肯いていたが最後に『躬恒をあなどってはいけません』と云う。

 俊忠卿は意外に思って『ということは貫之が劣っているという意味なのか、はっきり伺いたい』と詰め寄ると、俊頼が「躬恒をあなどってはなりません」と繰り返すので、『大体の様子はわかりました。私の負けのようです』と俊忠卿は辛い結果を受け入れた。本当に躬恒の対象に深く思い入れた歌の詠み方は無類のものです」と、いうことである。

そこで、論争の対象になった代表的な古今集歌人の躬恒と貫之の詠い振りの片鱗に触れるために、『新古今和歌集』巻第一春歌上から二人の歌をそれぞれ一首引用してみた。

14    延喜(えんぎの)御時(※5)の屏風に         紀貫之
ゆきて見ぬ 人もしのべと 春の野の かたみにつめる 若菜なりけり
【現代語訳:春の野に行って見ない人も賞美するようにと、その形見として筐(かたみ)に摘んだのですよ、この若菜は】

22    題しらず                   凡河内躬恒
いづれをか 花とはわかむ ふるさとの 春日(かすが)の原に まだ消えぬ雪
【いったいどちらを花と見分けようか。古京の地春日野の原にまだ消え残っている雪、そしてその中で咲き初めた白梅を】

(※1)検非違使別当(けびいしのべっとう):平安初期から置かれ京中の非法・非違を検察し、追捕・訴訟・行刑をつかさどった検非違使庁の長官。

(※2)太宰権帥(だざいのごんのそつ):大宰府権官。納言以上が任じられた。

(※3)凡河内躬恒:平安前期の歌人三十六歌仙の一。宇多・醍醐天皇に仕え、古今集撰者の一人で、紀貫之壬生忠岑と並称。

(※4)紀貫之:平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一。醍醐・朱雀天皇に仕え、御書所預から土佐守、後に従四位下、木工権頭に至る。紀友則らとともに古今集を撰進。「土佐日記」の著者。

(※5)延喜(えんぎの)御時:醍醐天皇(第60代)の御世。在位897〜930


参考文献:『無名抄:現代語訳付き』 鴨長明 久保田淳(訳注) 角川ソフィア文庫

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社