後白河院と寺社勢力(40)寺社と商人(3)一等地を陣取る京商人

 律令制的負担から比較的拘束されない調・庸・徭役負担者以外の家族、女性、住所不定の民、貴族・土豪の輩、農耕負担を免れている市人、宮司の下で手工業生産を行っていた織戸・漁夫・杣人などの賎民や工房奴隷的な階層から始まったとされる商人達は、荘園の著しい生産性の向上により、荘園領主と強い結びつきを持つと共に豊富な商品知識を有する供御人や神人・寄人の参入に伴い、賀茂川の氾濫を受けにくい「町小路」という京の一等地の二条町・三条町六角町・七条町などに店舗を構えるまでに至った。

 なにゆえに町小路が一等地かといえば、「賀茂川の水、双六のさい、山法師」と希代の専制君主白河法皇が嘆いたように、賀茂川は古来から「暴れ川」と称されるほど頻繁に氾濫し、治水整備が望めなかった当時は市中が水浸しになり、さらには疫病が大流行して貴賎を問わず多くの命を奪い、それを鎮めるための怨霊会が現在の祇園祭祇園会)に発展した。

 さて、その、一大繁華街のイメージを具体化するために、「寺社勢力の中世」(伊藤正敏 ちくま新書)を参考に下図を作成してみた。当時の町小路は現在の新町通りに当たり幅は25メートル近くあったとか。以下、殆ど「寺社勢力の中世」の引用になるが(いや、丸写しに近いか。著者様、御免なさい)下図に添いながら商店街それぞれの特徴を述べてみたい。



○ 二条町
・米販売市場があり米商人が多かった

○ 三条町
祇園社に属する綿座商人がいた。

○ 六角町
・魚市場で生魚商人は全て女性でその数60人。

○ 錦小路町
祇園社に属する綿商人がいた。
延暦寺に属する武器商人。

○ 四条町
祇園社に属する綿座商
・4人の小物座商人と4人の腰座商人はいずれも女性。
・刀座もあるが、この座は油小路女房という女性から延暦寺末寺常不動院が購入。
 また、四条町には日本最大の武器市場があった。

○ 五条町前後八町
 この商店街は五条町を中心に南北東西3万平方メートルに及ぶとされ、叡山が応仁の乱(1446〜1447)をはさんで作成した土地・家屋台帳ともいえる『検地帳』によれば次のように多彩な商店や職人の工房が軒を並べていた。

大工、銀細工、紙屋、薬屋、豆屋、蒟蒻屋、茶屋、紺屋、小袖屋、金箔屋、下駄屋、唐物屋(輸入品専店)、烏帽子屋、鍵屋、花屋、素麺屋、塗師屋(ぬしや)、筆屋、玉屋(数珠玉製造販売)、味噌屋、酒屋、高麗屋(朝鮮からの輸入専門店)。

そう言えば、後白河院がお忍びで蒔絵師の工房に立ち寄り、好奇心丸出しで製造工程をつぶさに見学し、見事な出来栄えに感嘆して注文をして帰ったが、御所の警護役に その旨を伝えなかったために、完成品を届けた蒔絵師がせっかくの注文をフイにした と伝わる工房ももこの辺りであったろうか。

 ○ 七条町
  ・祇園社に属する綿座商人。
 (三条町・錦小路町・四条町・七条町の祇園社に属する綿座商人の数は80人)。

  ・南北朝期には祇園社に属する綿座商人と7条町の内裏駕與丁に属する商人が連携し綿商売を独占していたが、振売の里商人と販売権をめぐって訴訟争いを展開している。

既にこの頃の京では豆、味噌、酒はともかく、蒟蒻、素麺を食していたのがわかる。また、輸入専門店の唐物屋や高麗屋が存在していたのを見ると純然たる鎖国状態ではなかったことも。

参考文献は「寺社勢力の中世」(伊藤正敏 ちくま新書