後白河院と寺社勢力(38)寺社と商人(1)京の女商人

  「秋の日に都を急ぐしずのめが帰るほどなきおほ原の里」これは拾遺愚草に納められた藤原定家の歌であるが、幽玄な恋を謡う名手の目にも、商いを終えて薪や炭を頭上に載せて家路を急ぐ大原女は印象深かったのであろう。
 
 平安時代の女商人の象徴ともいえる大原女は、供御人(※1)として宮中に炭や薪を運ぶ傍らで、市中でそれらを販売する者もおり、平安京時代のJR京都駅近くにあった官設市場には市女(※2)たちが働いていた一方で、都大路では販女(ひさぎめ)や振り売り(※3)と呼ばれる行商の女達が働いていて、おそらく定家が目にしたのはそんな女達の一人であったのであろう。
 
 また源氏物語よりも前につくられた『宇津保物語』では、三春高基という大臣が、徳町という裕福な市女を妻に迎えて屋敷の近くに構えた店で商いをさせ、自分はその儲けで利殖に励んだ話が載っているが、結婚によって女は高い身分を、男は富を手にしたのだから今なら「戦略的互恵婚」とでも称するか。

 平安期から中世にかけての女性といえば貴族の女性や彼女達に仕えた女官が思い浮かぶが、高貴さや絢爛さとは縁遠いながらも、どっこい市井の女性達は逞しく暮らしていて、その代表格が女商人であった。

 女商人の始まりは漁師のおかみさんが夫の漁師から魚を買って売り歩いた事から始まったとされが、建久3年頃(1192)に京の一番繁華な六角町で「六角町四宇(※4)供御人」と呼ばれた60人の生魚商人は全て女性であった。彼女たちは天皇の供御人である夫の琵琶湖畔の漁師から淡水魚を買って商っていた(下図①)

 さらに遡って『今昔物語』では、酒によって反吐を出し、それを鮎寿司に混ぜて売った強欲な女商人の話が出てくるが、河原に住む洛南の桂女(※5)は京都市中に鮎や鮎寿司を売って歩いていた。
 
 この他にも、麩(からこ)・蒟蒻・蓮根などの精進物を扱う商人にも女性が多かったが、総じて彼女達には現金収入があったから夫たちよりも豊かで、時に夫に高利で金を貸す者がいたという逸話も残っている。

 さらに古くには、「洛中白川辻職」と呼ばれた餅・菓子商人は祇園社の巫女右方4座が統括し、下っては南北朝期に、三条町・七条町に町座を持つ綿本座神人と争って勝訴した綿新座商人の振り売り里商人には、柿宮女、安久利女、鶴松女といった女商人が多かったが、争った相手の綿本座神人にも女性が多かったことから、高利貸と同様に商人の世界でも寺社と女性の相性は良かったようだ(三条町は下図②、七条町は下図③)。



(※1)供御人(くごにん):中世、神社または朝廷に供御を献ずる義務と特権を持った人民。後には座を組織して独占的営業権を持つ者が多かった。

(※2)市女(いちめ):市であきなう女商人。

(※3)振り売り:荷物を天秤棒で担いで声をあげながら売り歩く人。棒手振(ぼてふり)ともいう。

(※4)宇:ひさし、のき。屋根。または家。

(※5)桂女(かつらめ):京都の桂の里に住み独特の風俗を伝えていた一種の巫女。平安時代天皇桂川の鮎を献じたことから、のちに白い布を頭に巻いて鮎、鮎寿司、飴などを売り歩いた。


参考文献は以下の通り。

「中世の非人と遊女」網野善彦 講談社学術文庫
「京都学を学ぶ人のために」上田正昭監修 世界思想社