熊井啓監督の思い出〜高田馬場で見た映画「帝銀事件・死刑囚」

K-sako2007-12-05

 「本覚坊遺文〜千利休」で強い印象を残した映画監督の熊井啓さんが亡くなったのを5月24日の新聞で知った。

 私は1970年代の前半に、熊井監督のデビュー作といわれる「帝銀事件・死刑囚」を高田馬場の小さな劇場ACTミニシアターで観たのだが、そこは、民家の二階で、靴を預けて座布団に座ってみる映画館で、およそ40の座席は映画好きの若者達の熱気に満ちていた。

 松本清張の「小説帝銀事件」によれば、帝銀事件とは、昭和23年1月26日午後3時頃、東京都豊島区長崎帝国銀行椎名町支店に東京都の消毒班の腕章をつけた中年の男が訪れ、16人の行員に赤痢の予防薬と偽って青酸化合物を飲ませ12人を死亡させたうえ、現金約16万円余と小切手一枚を奪った毒物による大量殺人事件で、犯人として昭和23年8月に逮捕されたのが、北海道小樽のテンペラ画家として知られた平沢貞通であった。彼は死刑確定後も無罪を主張したが、昭和62年5月に95歳で獄中死した。

 熊井啓監督の映画のストーリーはすっかり忘れたが、映画を観た後で40人近い私たち若者が熊井啓監督を囲んで監督と語る機会を持ったのだが、衝撃の強い作品と、長身で瓜実型の柔らかい表情の監督との対比が意外であった。  

 この時、監督は、帝銀事件を冤罪と捉え、旧陸軍細菌部隊(731部隊)の陰謀とGHQの圧力を前提にして書かれた松本清張の「小説帝銀事件」に近い考えを持っているようだった。

 見た目の線の細さと対照的に、力を込めて語る言葉の緩急に合わせて、握ったりほどいたりしていた、細長くてしなやかな熊井監督の指が今でも私の脳裏に焼きついている。