新古今の周辺(60)寂蓮(7)歌人・中務少輔定長(4)『歌仙落書

承安2年(1172)成立したとされる『歌仙落書』は、歌林苑会衆の小侍従・殷富門院大輔・二条院讃岐を含む平安末期を代表する歌人20人の歌集を収めたもので、定長も「中務少輔定長」の名で最後に出詠した4首が収められ、この頃には既に歌人として評価されていた事がうかがわれる。

ここでは、定長がどのように評されていたのか、『歌仙落書』から見てみたい。

『歌仙落書』の序文は『古今和歌集・仮名序』の六歌仙評にならった文章で記され、その中で定長は小野小町評にそって歌風を批評されているが、その小町評は、

「おののこまちはいにしへのそとおりひめ(※)の流なり、あはれなるやうにてつよからず、いはばよきをうなのなやめる所あるににたり、つよからぬはをうなのうたなればなるべし。

【現代語訳:小野小町の歌は昔の衣通姫(※)の系統である。しみじみと心打たれるところはあるが強くはない。いうなれば高貴な女性が病に悩んでいる様に似ている。強くないのは女性の歌であるからであろう】

中務少輔定長 四首

定長の出詠歌評から

 風体あてやかにうつくしきさまなり、よわき所やあらむ、小野小町が跡をおもへるにや、美女のなやめるをみる心地こそすれ

【現代語訳:歌風は上品で優雅な様子でり、弱いところがみられるのは、小野小町の歌風を思わせるからで、病んだ美女が悩んでいる姿を見るような気持がするからか】

  霞隔浦
へだてする明石のとまで漕ぎくれば霞もすまにうらづたひけり

【現代語訳:遠く隔たった明石の海峡まで漕いできてみれば、霞も浦から浦を伝って須磨の辺りまできているよ】

  旅行五月雨
さざれ石の上ふみこえしわすれ水駒もかよはず五月雨の頃

【現代語訳:野中の細石(さざれ石)の上を人に知られることなくちょろちょろと流れている水も、五月雨の頃になると馬も通ることが出来ないくらいの流れになるよ】  

  述懐
逢坂のせきの清水にかげみればまた詫人も世にはありけり

【現代語訳:人里離れた逢坂の関の清水に映る人影を見れば、世間から離れてわびしく暮らす人もまだこの世にはいるのだな 】

   物申しける女の身まかりにける後のとし久しくなりて住みける家の前を過ぐとて見入りて侍りければ、ありにしもあらずあれにければよめる

【現代語訳:以前に関わっていた女性が亡くなってから年月を経て、その女性が住んでいた家の前を通る機会があったので家の外から様子を眺めたところ、嘗ての有様と余りにも違って荒れ果てていたので詠む】
    
思ひ出づる事だにもなくは大かたの物さびしかるやどとみてまし

【現代語訳:かつて知っていた女性の住処だと思い出すこともなかったら、どこにでも見られる荒れ果てて寂しい家と見ていたことだ】

(※)衣通姫(そとおりひめ):美しい肌の色が衣を通して照り輝いたという『日本書紀』で允恭天皇の妃、弟姫(おとひめ)の事。姉皇后忍坂大中姫の妬みを買い、河内国に身を隠した。後世、和歌浦の玉島神社に祀る。和歌三神の一つ。


参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版