新古今の周辺(73)寂蓮(20)仙洞歌壇(5)『正治院初度百首』

次に『新古今和歌集』(巻第五 秋歌下 469番)に採られてもいる寂蓮の秋部の「露」を歌材に詠んだ次の歌を採りあげたい。

 物思ふ 袖より露や ならひけむ 秋風吹けば たへぬものとは
【現代語訳:露は物思うわたしの袖の涙から習ったのだろうか。秋風が吹けば堪えかねて散るということを。】

ところで「露」は『万葉集』(第十二巻3042番)よみ人しらずの下記の歌でもしられるように、「古今和歌集」以降の勅撰集に積極的に歌材として詠まれてきた。

朝日指 春日能小野尓 置露乃 可消吾身 惜雲無
【現代語訳:朝日がさす春日の小野に置く露に似て、やがて消えてゆこうとする我が身は惜しくもなし】

ここでは「たへぬもの」の解釈に焦点を当ててみたいが、因みに『新古今和歌集』(小宮本)では「たへぬ物とは」の句を「絶ぬ」と、『新古今和歌集』(烏丸本・鷹司本)では「たえぬ」と本文に記している。

そして、『新古今集聞書(後抄)』では「秋風ふけばこぼるる物なれど、又やがてをく故に、たえぬ物といえり」と、秋風が吹けば露はこぼれる物であるが、またすぐ置くために、絶えないものと言っているとして「絶えぬ」の意味を採用している。

ところが本居宣長は『美濃の家づと』で「ふるき抄に、たへぬを、絶ずとおくことと注したるはたがへり」と記し、本来は「堪えることができない」の意味であると指摘している。

で、21世紀に生きる私は、自然現象の「露」を、置く物と表現する視点に目を見張ってしまった。真っ先に思い浮かんだのは「一体誰が露を置くのよ」と身も蓋もない疑問だった。

しかし「露を置く」とは何と神秘的な視点であろうか。露が発生するのは殆ど夜半と思われるが、一体どのような存在(神か霊か)が、どのような手業で木や草の葉の上にそっと露を置くのであろうか。実に詩心だけでなく絵心も誘われる表現である。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

    『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上』久保田淳 校注 新潮社版