新古今の周辺(82)寂蓮(29)和歌所(6)『三体和歌会』(2)

更に続けて『三体和歌会』での寂蓮の詠歌を見てゆきたい。

  夏 太くおおきに読むべし
夏の夜の有明の空に郭公月よりおつる夜半の一声
(現代語訳:夏の夜の明けようとする頃の空に、郭公の月の内より出てくるかと思われる夜半の一声がする)

  秋 からびほそく読むべし
軒ちかき松をはらふか秋の風月は時雨の空もかはらで
(現代語訳:時雨の降っている音かと思って見ると、空の月は明るくて変わっていないで、軒近くの松を払っているのか秋風の音のすることよ。)

  冬 からびほそく読むべし
山人のみちのたよりもおのづから思ひたえねと雪は降りつつ
(現代語訳:山人の頼みとする道も跡絶えてしまって、いつのまにか思い切れと雪は降り続いていることよ。)

 恋 ことに艶によむべし
うきながらかくてやつひにみをつくしわたらでぬるるえにこそ有りけれ
(現代語訳:せつない嘆きのままで、こうして終わりには身をほろぼして、渡らないで濡れてしまった江であることよ。〔実際には契りを交わさない浅い縁でありながら、契りを交わしたようになってしまって、切ない嘆きのままでこうしてしまいには身を滅ぼしてしまうことよ。〕)

  旅 ことに艶によむべし
むさしのの露をば袖に分けわびぬ草のしげみに秋風ぞふく
(現代語訳:武蔵野の草葉においている露をたやすく分けることができなかったことよ。草の茂っているところに秋風が吹いて草葉の露を払ってしまうけれど、私の袖の露(涙)は払うことのできないことよ。)

ところで後鳥羽院は、『三体和歌会』における寂蓮の歌ならびに作歌の姿勢を『後鳥羽院御口伝』で次のように率直に賞賛している。

〔寂連は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくはたかくなりしかども、いざたけある歌詠まむとて、「龍田の奥にかかる白雲」と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。

折りにつけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるように詠みし方、真実の堪能と見えき〕

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版