独り善がり読書(2)「吉原という経済圏」で生きる人々を活写した極上ミステリー「吉原手引草」

 「吉原手引草」松井今朝子著(幻冬社)は、読者に、面白すぎて一気に読みたいが、他方で、選び抜かれた語り口から発散する蠱惑的な吉原の雰囲気をじっくり噛みしめたいので時間をかけて読みたいと迷いを起こさせる本である。

 

 物語は、吉原一の全盛を謳われた花魁葛城が、その絶頂期に、ある日突然姿を消した真相を一人の男が追う。

 

 その男は、引手茶屋の女将、妓桜(花魁を囲う大見世)の見世番・番頭・遣り手婆・床廻し、妓楼主・幇間、女芸者、指切り屋の婆、女衒、船頭などの吉原で身過ぎ世過ぎをする者から、葛城の上得意であった蔵前札差や縮緬問屋の主といった豪商に至るまで、一人一人に差しで、当時の状況を語らせるのである。

 

 

登場する一人一人の語り口の見事さ

 

 この小説の魅力は謎追いにある事は勿論だが、上記の、吉原で生計を営む者達の、それぞれの役割や身分に依った独特の語り口の味わいにあり、読者は、一つ一つそれらを読み進むなかで、「ワンダーラウンド・吉原経済圏」の仕組を俯瞰的にイメージ出来るばかりか、一度も本人が登場しない葛城像が、魅力的な人柄を伴って生き生きとした姿で浮かんでくるところにある。

 

徹底的な分業で成立っていた吉原という経済圏

 

 この本で、私は、吉原が徹底的な分業で成り立つ経済圏である事を初めて知った。全ては花魁という商品が客に「色を売る」事で成立つ経済圏なのである。妓桜(歌舞伎や落語で有名なのは三浦屋、扇屋、松葉屋)、引手茶屋、遣り手婆、幇間、振袖新造、身売りさせられる寒村の女の子を斡旋する女衒、などは、何となく知っていたが、客に忠誠心を見せるために指を切る花魁の為に、偽の指を作る指切り屋、花魁と客の配分を効率的に按分する床廻し、など、見事な分業体制である。

 

 吉原では幇間が男芸者、女の芸者は女芸者と区別され、赤坂、新橋、辰巳等の芸者と異なって、吉原の女芸者はあくまでも、「色を売る花魁」を引き立てる存在に過ぎず、芸は売っても身を売るのはご法度と、終始二人組みでお互いを見張らせた事や、主商品の花魁よりも目立たないように地味な装いを強いられていた事など、吉原独特の「しきたり」も面白い。それを語る女芸者は迷惑顔であったようだが。

 

身の上話から見える浮世の辛さ

 

 なんと言っても圧巻は、吉原に流れ着くまでの、語り手たちのそれぞれの身の上話である。登場する一人一人の身の上話だけでも、当時の生きる辛さが身に沁みてくるのだが、それでいて、昨今ではとっくに忘れられてしまった人間の原点ともいえる性(さが)とか業(ごう)に思い至って、安易な格差論や、お気軽な人生指南書をぶっ飛ばすほどに、遥かに深い人生の淵を覗かせてくれる。

 

スパッと歯切れのよい女惚れのする作者

 

 ところで、私がベストセラー作品故に図書館の長い予約リストを待っている間に、本書が直木賞を受賞する事になり、2007年7月19日の新聞で、作者の横顔に触れる事が出来た。「いい小説とは作者を忘れさせるもの」とは、作品の語り口同様に、何とも歯切れの良い台詞。惚れますなー。