80歳の追想(40) アメリカ・カナダ旅行 ⑮ 1986 ニューヨーク タイムズ・スクエア 当日半額チケット売場に並ぶ人々と彼らを取り巻く光景

 

 

 

翌日の朝、遅めに起きた私達がエジソン・ホテルを出ると、タイムズ・スクエアのチケット売り場に並ぶ長い列が目に入った。 

 

興味を抱いた私が、並んでいる中の一人の女性に「何ですか?」と尋ねると、「私達は半額で見たいミュージカル公演の当日券を購入するために、朝の10時から並んでいるのです」と答えてくれた。

 

そんなお得な話を見逃す手はないと、私たちも列の最後に連なった。

 

そして、じっくり周囲を見回すと、並んでいる老若男女のそれぞれが、珈琲カップやドーナツを手にして、お喋りしたり、どの公演チケットが売り切れたとか、情報交換し合っていた。

 

チケット売り場スタンドの窓口に、チケットが売り切れた公演と未だ売り切れていない公演が刻々と表示されていたのだ。

 

そんな中で、特に私の目を惹いたのは、共にピシッとビジネス・スーツを着こなした中年男性と、若くて美男のゲイカップルだった。

年上の男性は、買ってきたばかりの熱い珈琲入りのカップを手渡したり、スタンドの窓口まで行き来して、彼らが見たいチケットは未だ売り切れていないと知らせたりして、マメに若い男性の世話をしていた。 

 

私の見たところ、長い行列に並んでいる人々の多くが、ここに並んでいること自体を楽しんでいるようだった。

 

他方で、タイムズ・スクエアの当日半額チケット売場に並んでいる人たちに見せることを目当てに、詩の朗読や一人芝居を披露する人たちが登場して、私達は全く退屈しなかった。

 

長蛇の列に参加した結果、私達は当時大評判の「A  CHORUS  LINE」のS席を半額で購入して、足取りも軽くニューヨーク証券取引所の見学に出かけた。

 

その夜に見たミュージカル「A  CHORUS  LINE」は、私の英語力で完全に理解できたとはいえないが、それでも民族・人種の対立から生じる辛らつな応酬はかなり理解できた。

「A  CHORUS  LINE」は多民族が共に暮らす国ならではのドラマだ。  

 

ともあれ、この旅で、目の前がタイムズ・スクエアの当日半額チケット売場という、ブロードウェー47丁目の「エジソン・ホテル」に宿泊した事が、私のミュージカル開眼を促した事は確かである。

80歳の追想(39) アメリカ・カナダ旅行 ⑭ 1986 ニューヨーク 「オペラ座の怪人は3年先まで売り切れ」と言われ、『Mr.レディ Mr.マダム』を基にした「ラ・カージュ・オ・フォール」を観る

 

(写真は当時のブロードウェイの劇場上演リスト)。

 

今回の私達のニューヨーク旅行は3泊の滞在で、主要な目的は、美術館探訪、ニューヨーク証券取引所の見学、そして、当時の日本でも大評判になっていたミュージカル「オペラ座の怪人」を見る事がであった。 

 

そこで、私達は五番街を後にしてブロードウェイのチケット売場に行き、「オペラ座の怪人」のチケットを申し込んだのだが、販売スタッフから「3年先まで全席売切れ」といわれて唖然とした。 

 

それでは仕方が無いので、私たちはまだ観ていなかったが、当時、帝国劇場で、ゲイの夫を岡田真澄、ゲイの妻を近藤正臣が演じて大ヒットしていたミュージカル『Mr.レディ Mr.マダム』をベースにしたコメディミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール(La Cage aux Folles)」のS席を50ドル前後で購入して、夕食後に劇場に足を運んだ。 

 

ゲイの夫と前妻の間に生まれた息子が婚約者を伴ってゲイ夫妻を訪れることになり、それを前にして、そわそわしたり、あれこれ気を遣ったりするゲイの妻(Mr.マダム)の母性愛がしみじみと感じられて、私はこのミュージカルで、ゲイ男性の妻のパートナーの息子への母性愛の深さを知って感動した。

また、それ以上にゲイの妻の母性愛を表現する男性俳優の苦労を感じたりもした。

80歳の追想(38) アメリカ・カナダ旅行 ⑬ 1986 ニューヨーク 五番街からの強烈なご挨拶

 

書店を出た後、私達は、洗練されたカフェの窓際の席に座って、チョコレートケーキと香り高い珈琲で寛いだ。

 

そして、カフェをでた後で私達が遭遇したのは、荘厳なブラス楽隊に続いて、4人の警官によって掲げられた星条旗、その後に続く黒塗りの霊柩車と制服警官の隊列と、五番街一杯に繰り広げられた、葬送行進だった。 

 

初めて足を踏み入れた五番街で、このような葬送行進に遭遇するとはと思いながら、行進を取り巻く人たちの会話に耳を傾けると、任務で亡くなった警官の葬列のようだった。

 

その葬送行進を見送った後で、再び私達はお上りさんの目を取り戻して、あちらこちら興味津々に歩き回っていると、美しい讃美歌がきこえてきたので、そのメロディーに誘われて、荘厳な尖塔の教会(セントパトリック大聖堂)に足を踏み入れた。

 

そして、私達が空いたベンチに座ろうとすると、隣席の白人中年男性が険しい目付きで私達を追い払う仕草をするので、それを無視して再び腰を下ろそうとすると、その男性はあっちへ行けとドアを指差した。 

 

これは人種差別ではないかと私たちが態度を硬化させた時、近くに座っていた穏やかな中年の男性が、私たちの背中を指さして注意を促したので、友人と私は互いの背中を見て初めて隣席の男性の険しい表情を理解した。

 

友人と私のケベックで買ったばかりの革ジャンパーの背には、街頭のホットドッグの屋台に備わっていたトマトケチャップとマスタードがX型に塗られていて、私たちは五番街から強烈なご挨拶を承ったのである。

 

 

そして1989年、三菱地所ロックフェラー・センターを、ソニーはコロンビア・ピクチャーズを買収して、アメリカ国民、とりわけニューヨーク市民の神経を苛立たせるのである。

 

80歳の追想(37) アメリカ・カナダ旅行 ⑫ 1986 ニューヨーク 五番街の書店でチャンドラーとシムノンの本を買う

 

 

事前に旅行ガイドブックに○をつけていた五番街のガラス張りの大規模書店に立ち寄った友人と私は、売場の多様な書籍のレイアウトを楽しみ、美術本、写真集、ニューヨーカーやヴォーグなどの雑誌、そして雑誌ニューヨーカーで馴染みの作家の小説などを手に取り、大した英語力もないのにページを捲って雰囲気に酔いしれた。 

 

当時の私は、雑誌「ニューヨーカー」の短編小説を集めた「ニューヨーカー短編集」のファンで、とりわけ、アーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」や、トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」や「遠い声 遠い部屋」に感銘していたので、この雑誌にはとりわけ思い入れがあり、じっくりページをめくって雑誌の編集方針や雑誌の描くニューヨークの空気を嗅いだりした。

 

 

その後で、私はペーパーバック売り場で、若い頃から大ファンのレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーローシリーズと2冊とジョルジュ・シムノンメグレ警視シリーズの本を1冊購入した。 

 

アメリカ人のチャンドラーの小説を英語で読むのは何とかなるが、原書がフランス語のジョルジュ・シムノンの本を英語翻訳で読むのはどうなのかな?と思ったが、まあ、ニューヨークで粋がっていた思い出となるだけでも良いか。

80歳の追想(36) アメリカ・カナダ旅行 ⑪ 1986 ニューヨーク ブランド品を纏って五番街を闊歩する日本人

 

 

初めてニューヨークに行ったのは1986年の5月初めだった。私と友人はニューオリンズのジャズ・フェスティバルを楽しんだ後にケベックを観光し、そして最終地がニューヨークだった。

 

私達はブロードウェイに面し、タイムズ・スクエアに近い大衆価格のエジソンホテルに荷物を預けて、ケベックで買いたての革ジャンパーに着替えて颯爽と五番街に繰り出した。

 

何と言ってもニューヨークの五番街、さすがに世界中から富と才能豊かな人々が集中するところ、華やかな通りでは国籍も肌の色も異なる多様な人々が行き交っていた。

 

そして、街頭に出店している屋台からは、ホットドッグ、ベーグル、そしてプレッツェルの香ばしい香りが漂って私達の鼻腔をくすぐった。

 

しかし、最初の興奮が収まり、眼が慣れてくると、全身を高価なブランド品で装って闊歩する人たちの多くが日本人である事に気がついた。

 

ティファニーに至っては、店内のショーケースで品定めをしているのは日本人しか見当らず、さながら「ティファニーを占拠する日本人」の様相を呈していた。

 

それに引きかえ、同じ日本人でありながら、しがないOL(今は死語か)の友人と私は、ティファニーで高価なジュエリーを購入する余裕は無く、金ピカのトランプタワー内の大衆的なアクセサリー店で、プチペンダント付きの細い18金チョーカーを購入するのが精々であった。

 

ニューヨークは「ビッグ・アップル」と呼ばれていた。

80歳の追想(35) アメリカ・カナダ旅行 ⑩ 1986 ケベック 日本人男性ガイドの案内で郊外の大規模市場へ

 

ケベック滞在最終日に、友人と私は、「パスポートの会」の男性リーダーから紹介されていたケベックで旅行ガイドをしている日本人男性と落ち合った。

 

ラフなスタイルで現れたその男性は三十代前半で、互いに簡単な自己紹介を終えて、私達は彼の車で、ケベック郊外にある大きな市場に出かける事になった。 

 

運転をしながらの男性の説明によれば、郊外のその市場は特に革製品が豊富とのことで、私たちはこの機会に革ジャケットを買うことにした。何故なら当時の東京では革製品が非常に高価だったのだ。

 

ケベック中心街から車で30~40分を経たその市場は、広大な敷地に、衣類・アクセサリー・雑貨等、様々な商品を扱うカラフルな店舗の他に、レストランやカフェが建ち並び、日本でも大流行の郊外の大規模ショッピング・モールのようだった。 

 

私達はあちこちの店に入ってウインドウ・ショッピングを楽しんだ後、革製品店でジャケットをあれこれ物色していると、店のスタッフが私達に近づいて、ケベックでは一品500ドル以上から付加価値税(日本の消費税に該当か?)が課税されると説明してくれた。 

 

その結果、私は黒と濃い緑の同じデザインの革ジャケットを各々550ドルで、友人は濃紺の革ジャケットを490ドルで買った。

 

日本ではとてもこの値段では手に入らない革ジャケットに満足した私達は、車でこの市場を案内してくれた男性に大いに感謝した。

 

あれから39年を経たが、あの時私たちを市場に案内してくれた心優しい日本人男性は、今でもケベックで暮らしていらっしゃるのかしら。

 

 

80歳の追想(34) アメリカ・カナダ旅行 ⑨ 1986 ケベック 「マダム、ショッピング・バッグの底が破れていますよ」と声かけられて

 

友人と私は、ケベック滞在2日目をこの街のランドマークである王城を見学することした。 

 

私達が見学した時の王城はシンプルで古風な佇まいであったが、数年後にはフェアモントグループの傘下で改築されて、フェアモント・ル・シャトー・フロントナックと呼ばれているようだ。

 

周辺の散策を終えて、私達が王城の中の高級宝飾店でウインドウ・ショッピングをしていたところ、突然、「マダム、ショッピング・バッグの底が破れています」と男性の滑らかな英語で話しかけられた。 

 

私達が声の方向に目を向けると、縁なし眼鏡をかけたパリジャン風の男性が宝飾品のカウンターの内側に笑顔で立っていた。 

 

そして、その男性は、幅広い透明な接着用のセロテープを取り出して、私が携行していた厚地の紙製のショッピング・バッグの破れ目に貼り付けてくれたのだが、その身のこなしがとてもエレガントだった。

 

私はその店主の思いがけない親切に感激して、陳列ケースの中から、精巧なバイオリンを彫ったプチペンダント付きの金鎖のネックレスを買うことにした。 

 

その後、このバイオリンのプチペンダント付きのネックレスは、私がクラシックコンサートに出かける時の定番アクセサリーになった。