鴨長明は、歌人としての評価を藤原公任のように歌そのものだけで判断するだけではない事を、和泉式部や赤染衛門と同時代に後宮文學を彩った紫式部の日記を下記のように引用して明らかにしている。
70 式部・赤染勝劣のこと(3)
「和泉式部の人柄はとても感心できるものではない。しかし、文を書く事に置いては才能が感じられ言葉の端々に何かしら読む人の眼を留める趣がある。
しかし、歌人としては本当の歌詠みとは言えないのではないか。ただ口に任せた詞のなかに必ず人の耳をそばだてる気の利いた一節を添えているに過ぎない。しかし、世の人は和泉式部を優れた歌詠みと思っているようだが、そこまで深く彼女の歌を掘り下げて評価している人はいないでしよう。
和泉式部はただ単に口先だけで歌を詠む人のようだ。だからこちらが恥ずかしくなるほどの歌の上手とは思っていない。
丹波の守北の方(丹波守大江匡衡(※1)の妻赤染衛門)を宮(一条天皇中宮彰子)や殿(藤原道長)の周辺では匡衡衛門(まさひらえもん)とお呼びしています。
赤染衛門は際立った身分ではないが、まことに品のある歌詠みです。何かにつけて絶え間なく歌を詠みちらすようなことはないが、私の耳にした限りでは何気ない折節のことなどをこちらが恥かしく思うほどに見事な詠いぶりをされている」と。
ここには、藤原道長や中宮彰子の威を借りた上から目線の物言いが感じられるが、しかし当時最高の文芸サロンのパトロンであった藤原道長や中宮彰子とその周辺の見方も窺われ、歌人としての評価は本人が生きている間は歌だけでなくその人の人格・振る舞いに影響されることが見て取れる。
さはさりながら、だからこそ、本当の歌の上手であれば優れた歌も多いのであるから、折に触れて間断なく読み続けて多くの作品を残しておくと色々な撰集などにも取り入れられると長明は結論付け、その好例として曾禰好忠(※2)を挙げている。
存命中の曾禰好忠は振舞が悪くて人の数にも入れてもらえなかったようで、円融院(※3)の子日の御幸に呼ばれもしないのに押し掛けて愚かな人間というレッテルを張られていた。しかし今では優れた歌人とみられているように思う。一条院(※4)の治世に、様々な学問や芸能に名を成した人々を列挙して江帥(ごうのそち:大江正房(※5))が記した『続本朝往生伝』にも「歌よみには、道信・実方・長能・輔親・式部・衛門・曾禰好忠」と平安中期の優れた歌人7人の中に加えられている。これも、本人の生きている間は自らの素行の悪さにより歌人として世間の評価も得ていなかったのである。
(※1)大江匡衡(おおえまさひら):平安中期の漢詩人・歌人。従五位下文章博士・式部大輔。中古三十六歌仙。
(※2)曾禰好忠(そねのよしただ):生没年・出自未詳。長保五年(1003)生存。六位。中古三十六歌仙。家集『曾禰好忠』
(※5)大江正房(おおえまさふさ):長久2年(1041)〜天永2年(1111)、大学頭成衡の息子。匡衡は曾祖父、赤染衛門は曾祖母。正二位権中納言・太宰権帥。享年71歳。『江家次第』『遊女記』他著述多数。家集『江帥集』
参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫