新古今の周辺(15)鴨長明(15)隆信(1)歌人評価の凋落を嘆く

若い時は歌の名手ともてはやされながら、年を経て後鳥羽院歌壇の面々からボロボロに批判されて「歌の盛りに死んでいれば名を残せたものを、徒に長生きしたためにむざむざ名を落してしまった」と嘆いた藤原隆信(※1)を鴨長明は『無名抄』で次のように描写している。

「64 隆信・定長(※2)一双のこと

近ごろ(新古今時代)までは隆信と定長が歌人の一双として若い頃から高い評価を得ていました。

私の師・俊恵が自房で「十度の百首」の歌合を催した時も、隆信と定長は互角の出来栄えで世間の評判を証明した。

さらに、藤原俊成が二人に十首歌を詠ませた時も甲乙つけがたい成果を示したので、俊成卿は『世の中の人が二人を一双として評価しているのを聞いた時は、そんなことがあるものかと思い続けていたが(猶子の定長が上手に決まっていると思っていた節がある)、この度の十首歌の出来映えでなるほど二人は甲乙つけがたいと証明書を出してもよいくらいに思った』と語っておられた。

しかるに、九条殿(兼実)が右大臣の頃、人々に百首歌を詠むように求めた時、隆信もその一人として名を連ねたが、半ば公務のようなものとはいえ、当時の彼の身辺は何かと騒がしくて歌を念じる時間もなかった事から期待に応える歌を詠進するに至らなかった。

他方で好敵手の定長は、法名を寂蓮と称して既に出家していので歌に専心する時間も充分で、ゆったりと構えて推敲を重ねて磨き上げた無題の百首歌を詠進したところ例えようもない秀歌であったので、この時から『寂蓮に並ぶ者なし』との評価が固まり、遂には後鳥羽院歌壇の周辺から『どんな愚か者が隆信と定長(寂蓮)を番(つがい)にしたのだ』とまで言われるようになった。

この事は隆信にとってまことに辛い事となり、『歌の評価が高い時に死んでいれば相当の名を残せたものを、むざむざと長生きしたために歌人としての名を落すことになってしまった』と嘆かせることとなった」

隆信と寂蓮(定長)は共に後鳥羽院和歌所の寄人を勤めたものの、撰進前に没したとはいえ寂蓮は『新古今和歌集』撰者に選ばれ、さらに入集歌に至っては寂蓮は35首、隆信は3首で圧倒的に差をつけられている。

ここでは残念無念の隆信の心境を偲んで彼の3首の『新古今和歌集』入集歌を味わってみたい。

巻第六 冬 歌 山家ノ時雨(しぐれ)といへる心を 藤原隆信朝臣
573 雲晴れて のちもしぐるる 柴の戸や 山風はらふ 松の下露
【現代語訳:雲が晴れたのちも柴折り戸にしぐれの降るような音がする。あれは山風が吹き払っている松の下露なのだろうか】

巻第九 離別歌 守覚法親王(※3)五十首歌よませ侍りける時
883 たれとしも 知らぬ別れの かなしきは 松浦(まつうら)の沖(おき)を 出づる舟人
【現代語訳:それがだれともわからないものの、人との別れが悲しく思われるのは、唐土(もろこし)へ向けて松浦潟の沖に出てゆく船に乗っている人々を思う時だなあ】

巻第十六 雑歌上  百首歌たてまつりし時
1538 ながめても むそぢの秋は 過ぎにけり 思へばかなし 山の端(は)の月
【現代語訳:物思いに耽りながら月をじっと見つめてきて、六十代の秋は過ぎてしまった。思えば、かなしく感じられるよ。今しも山の端に沈もうとする月は】

(※1)藤原隆信:康治元年(1142)〜元久2年(1205)。長良流、為経の息子。母は美福門院加賀で定家の異父兄。右京権太夫正4位下。似絵(肖像画)の大家。晩年に出家して号を戒心。和歌所寄人。『新古今和歌集』3首入集。享年64歳。

(※2)定長(藤原):保延5年(1139頃)〜建仁2年(1203)。長家流。僧俊海の息子で伯父俊成の猶子となるが定家の出生により出家して寂蓮。中務少輔従五位上。和歌所寄人。『新古今和歌集』撰者となるが撰進前に没、35首入集。享年六十余歳。

(※3)守覚法親王(しゅかくほつしんのう):久安6年(1150)〜建仁2年(1202)後白河院皇子。母は藤原季成の娘成子(高倉三位)。以仁王式子内親王の兄。二品。享年53歳。『新古今和歌集』5首入集。

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫
      『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社