私の2007年の幕開けは老眼鏡の弦のネジ外れで始まった。はて、面妖な。
実は、2006年暮の29日は友人からの到来物の中古小形テレビのアンテナ設置をするためにドライバーとペンチで腹ばいになりながら作業し、ついで、大晦日は急いで届けさせたアルミ製のテレビ置ローテーブルの組立と工事に追われていたのであった。
しかるに、元旦早々眼鏡の弦のネジが取れ、これまでなら眼鏡用のドライバーで何とか修復可能だったのだが、店員に進められてフェラガモのデザインの眼鏡のフレームを買ったのがいけなかった。とにかく部品が華奢で私の肉厚の指では摘みきれない。しかし手持ちの他の眼鏡は度が合わないし、今すぐパソコン作業したい事もあると、いらいらして。
そういえば、あの「赤貧洗うが如き暮らし」をしていた先生は、眼鏡の弦が折れたのを和紙で補修していたのだと、改めて2006年5月18日付の日経新聞夕刊の切抜きを取り出した。
この記事は、写真家土門拳を取り上げたもので、写真評論家の筆者は、土門拳の作品から、世界的な細菌学者で赤痢菌の発見者として知られる志賀潔博士の写真を、
【この時の志賀潔博士は「赤貧洗うが如き生活」をしており、自宅は障子紙の代わりに新聞紙を貼っていたという。この写真の眼鏡も弦が折れたので和紙で補修して使っているのであろう。いかにも博士の飾らない人柄をよくあらわしている】
との文章を添えて取り上げている。
私はこの写真から立ち昇る突き抜けた大らかさに心が動かされ、大切に切り取ってファイルしていたのだが、一般的な世間の常識からすれば、天下の土門拳の被写体に選ばれた世界的な細菌学者となると、こんなありのままをさらす撮影など家族は反対すると思うが、この写真を通して博士を誇りに思っている家族の思いが私には伝わってくる。
それで、私も、少しは志賀博士に近づきたいものと、木綿絲で修復して当座を凌ぐことにした。フェラガモデザインの老眼鏡のフレームも木綿絲で修復すると途端に生活臭が立ち昇って、結局のところ、眼鏡はどれでも同じですなー。