後白河院と寺社勢力(49)商品流通と政治権力(7)酒2 造酒司対

 中世の酒流通は延久(1069〜73)の宣旨によって造酒司(※1)が宮廷における酒の需給を管理し、康和(1099〜1104)の抄帳(※2)により決められた山城・大和・河内・和泉・摂津・近江・若狭・加賀・播磨・備前・備中・備後の12カ国の供御人に酒を貢進させる「諸国貢進型」流通体制を形成して、天皇・斎院(※2)が催す祭祀や行事のための酒の安定供給を図っていた。


(上は「年中行事絵巻」より内宴の図:上方に台盤を据えて料理が盛られ宴の用意が整えられている)


 しかし、酒は宮廷だけが必要としたわけではなく、諸寺社や摂関家を初めとする諸権門もそれぞれの行事・祭祀のために酒を自製しており、生産性の向上に伴う余剰品を捌き新たな収入源とするために、京市中に店を構えて活発な酒商売を展開して造酒司の酒流通支配を揺さぶり、さらに、嘉禄元年(1225)には、山城・近江・若狭・加賀・播磨・備前・備中・備後の8カ国からの供給が完全に途絶え、造酒司は安定供給の面でも窮地に立たされることになる。


 そこで打開策として、造酒司が仁治元年(1240)に打ち出したのが、「朝廷儀式への献納、諸社祭祀の神供、御厨子所未調達の補充のため」との大儀をかざして、「一年に、一宇(一軒?)毎に、酒一升の貢納を」という京中の酒屋へに対する新たな課役であったがが、「これでは諸社の神人や民家の酒屋の反発を招く」と反対する民部卿(※4)を初めとする他官庁の反対もあって立ち消えになる。


 しかし、あきらめきれない造酒司は、後宇多天皇に働きかけて、正安4年(1303)に「酒麹売り、あるいは諸社の神人、あるいは諸院宮(※5)諸方公人、あるいは権門勢家の領と称して、造酒司の所役に従わない事を禁じる」旨の院宣に漕ぎ着け、その後も元享2年(1322)には、蔵人所などの妨害を撥ね退けて、後醍醐天皇から「洛中の酒商人への造酒司の支配権の公認」を勝ち取っている。


 こうして造酒司の酒屋支配は室町幕府の力を得て引き継がれ、応安元年(1368)の造酒司による日吉神人への酒麹役賦課、春日在京神人、八幡宮大山崎神人、仁和寺嵯峨境内の酒麹売りなど、洛中だけではなく京周辺における神人への酒屋役賦課が実現していった。


(※1)造酒司(みきのつかさ):律令制で、宮内省に属し、皇室の用に供する酒・醴(あまざけ)・酢などの醸造をつかさどった役所。

(※2)抄帳:平安時代、諸国から送ってきた租税に対し中央諸官庁が発行した返抄(へんしょう)、すなわち、受領証を照合するための租税台帳。

(※3)斎院:賀茂神社に奉仕した未婚の皇女または王女(後白河院の第三皇女で歌人式子内親王が有名)あるいはその居所。

(※4)民部卿(みんぶのきょう):律令制の8省の一つ民部省のトップ。民部省は、主計寮・主税寮を管し、戸籍・租税・賦役など全国の民政・財政を担当した。

(※5)院宮(いんぐう):院(上皇法皇女院)と三宮(三后)・東宮の総称。


参考資料は「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店