後白河院と寺社勢力(126)遁世僧(47)法然(20)関東と専修

 関東における専修念仏の広がりは、法然上人の生前中はそれ程ではなかったとする説が支配的であるが、現在までに確認されている法然の消息文(門弟の代筆を含む)37通通のうち、関東に関するものは、御家人熊谷直実宛4通、津戸(つのと)三郎宛9通、大胡(おおご)太郎とその妻宛各1通、及び源頼朝の妻・北条政子宛2通を含めるて17通に達し、いずれも京から鎌倉までの遠路を使用人を遣わしての消息文である事を考慮すると、そこには専修念仏に対する並々ならぬ関心がみてとれる。

 そこで、関東では専修念仏がどのように受け止められていたかを知るために、石丸晶子編訳『法然の手紙』(人文書院)に目を通したのだが、一途な法然の帰依者や、これから専修念仏の理解を深めようとする者一人一人に対して、ある者には親のように細やかに、またある者には原則論を曲げず情と理の面から筆を惜しまず返書を認めているのが印象的であった。

そんな中で私の注意を喚起したのは次の二点である。

 一点目は「熊谷直実や津戸三郎は無知な者であるから法然上人は難しい余行ではなく念仏の行をすすめているのではないか」と関東で受け止められていたこと。

 これについては、建久6年(1195)の東大寺大仏殿供養に参列する源頼朝に随伴して入洛した津戸三郎が、吉水の法然の庵を訪ねて殺人を業とする武士の罪業の深さを懺悔し、帰郷後は法然に帰依して一途に不断念仏に励んでいた折に「お前や熊谷直実は無知の者だから上人が余行ではなく念仏の業を勧めたのではないか」と揶揄され、それを法然に相談した事を津戸三郎への返書で述べ、さらに、北条政子も同様の疑問を抱いて手紙で法然に質した旨が法然の返書で書かれている。

 私のこれまでの院政期資料研究を通した限りでは、この「無知の者だから法然は余行ではなく念仏の行をすすめる」云々は、当時の王朝貴族や主として平家が知行していた鎮西に至る西日本に流布する事のなかった説のように思われる。

 特に驚きを感じたのは、北条政子が、夫頼朝のかつての盟友であり、当時の貴顕中の貴顕、かつ知性派の代表であった九条兼実が、娘の後鳥羽天皇中宮であった宜秋門院任子に続いて自らも法然を戒師として出家したが、それは専修念仏そのものへの帰依であった事すら知らなかったという事か。

 そもそも法然は念仏の行以外は認めない「一向専修念仏」を標榜したが故に、延暦寺興福寺から度々朝廷に「専修念仏停止」の訴状を上奏され、時に弾圧を受けていたことを、尼将軍と呼ばれていた北条政子が知らなかったという事か。 

 とすれば、都と、いや都から鎮西にいたる西日本と関東の間には途方も無い情報格差があったと思うしかない。つまり、将軍を頂く東国はまだまだ情報僻地であったといえる。

 そして、私の注意を喚起した二点目は、宋から帰国して臨済宗を立ち上げた栄西に帰依して鎌倉に建てた寿福寺を寄進した北条政子が(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110318)が、何ゆえ、専修念仏を理解しようと思い立ったのか。いや、それだけでなく、専修念仏を布教する上での心構えなどを法然に尋ねる手紙を書く心情に至ったのかという事。

 折りしも北条政子がその手紙を法然に書いたと思われる元久2年(1205)は、不断念仏の行に打ち込む津戸三郎が、鎌倉に招いた法然の弟子二人の力を借りて家の子郎等30人を結縁させて法然を感激させながら、他方でその事で謀反の心があると幕府に讒訴され、将軍実朝の尋問をうける状況のさなかであった。


 

(左図は右端に尋問する将軍実朝、右図は尋問を受ける津戸三郎と法然の弟子、いずれも『法然上人絵伝 中』より)

 というのも、専修念仏に帰依する関東御家人熊谷直実や津戸三郎だけではなかったようで、その多くは幕府に対する不満を抱いていたとされ、幕府にとっても支配基盤を揺るがしかねない由々しき問題になりつつあったからであろう。

 そんな中で実朝を背後からコントロールしていたと思われる尼将軍・北条政子が、法然に対してわざわざ二通も手紙をしたためたという事は、彼女が専修念仏を質す意図はあっても、深く理解したり、布教の一端を担う心積もりがあったとはとても思えない。

参考文献は以下の通り

法然の手紙〜愛といたわりの言葉』 石丸晶子編訳 人文書院

『念仏の聖者 法然』 中井真孝編 吉川弘文館