当初、雅仁親王(後白河院)は母の御所に出入りする貴族や遊女達から見よう見まねで今様を習っていたが、腹違いの近衛天皇の即位を機に一段と今様に打ち込むようになったと言われている。
そんな中で、母・待賢門院に、今様上手の神崎の遊女(※1)かねが仕えていた頃、雅仁親王は女院にお願いして、かねを自分の座所に呼んで謡わせていたが、余りにも頻繁なので、堪りかねた女院から「お前、それじゃあ、あんまりだよ、私だって、かねの歌が聞きたいじゃないか」と苦情が出て、二人で折り合って一晩おきにかねを女院から借りて熱心に今様の技を磨いた情景を、還暦近くになった院が当時を懐かしんで回想している。
「神崎のかね、女院に侍ひしかば、参りたるには申してうたはせて聞きしを、『あまりにては。時々はこれにても、いかで聞かではあらむずるぞ』とて、夜まぜ(※2)に賜ばむとて賜ひしかば、あの御方へ参る夜は、人を付けて暁帰るを呼び、我賜る夜は、いまだ明きより取り籠めてうたはせて、聞き習ひてうたう歌もありき。明け方に返してやりてもなほうたひしを、かねが局対へ(※3)たりしかば、明けてのちもなお鼓の音絶えぬさまに『いつの暇にか休むらん』とあさみ(※4)申しき。かくのごとく好みて、六十の春秋を過ごしにき」
神崎のかねが、待賢門院への勤めを終える明け方頃には、帰り道に雅仁親王のお付が待ち構えて、親王の館に招じ入れて謡わせ、親王がかねを借りる夜は明るいうちから館に取り籠めて、とことんつきあわさせる。
いや、いや、神崎のかねさんも大変だが、かねさんを送り出した後も、親王は鼓の音高く、教わったところのお浚いを続けて「一体何時寝ているのですか」とかねさんを呆れさせる、まさに、芸道を極めるとは熱意に尽きます。
※ 1神崎の遊女:淀川の支流神崎川の河口近くの港町で遊女の一大本拠地。
※ 2夜まぜ:一晩おきに
※ 3かねが局対へ(つぼねむかへ):雅仁親王が待賢門院の部屋住みの頃、かねの局は庭を隔てた親王の館の向かいにあったと思われる。
※ 4あさみ:あきれ返る。
写真は麗しの母と子(?)