後白河院と寺社勢力(36)坊さんに女とかけて「高利貸」と解く!

  後白河院パトロンとして描かせた幾つかの作品が見られると、「院政期の絵画展」を見るために、33度の炎天下を汗だくで奈良国立博物館に足を運んだ顛末は既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20071121)。

 中でも、悪趣味ぎりぎりながら目をそむける事が出来なかった「地獄草紙」と「病草紙」の表現力に圧倒され、帰宅後に図書館から画集を借りてじっくり全体を眺めたのだが、「病草紙」の【ちかごろ、七条わたりにかしあげ(※1)する女あり。いゑとみ、食ゆたかなるがゆへに、身こえ、ししあまりて、行歩たやすからず】の解説付の、一人では歩けない程太った女を描いた下図の絵は、「へー、既にあの頃から、京の7条周辺には女の高利貸がいたのか」と強く印象に残っている。


(「日本の絵巻 餓鬼草紙 地獄草紙 病草紙 九相詩絵巻中央公論社より)


 さてお次の絵は、鎌倉末期に描かれたとされる「春日権現験記絵」から、京都の大火で春日権現のおかげで家が焼け残ったとの意図で描かれた一場面だが、宮廷絵師はリアリストだったようで、春日神社の守護で焼け残った家だけでなく、耐火性の蔵を持つ土倉(※2)の富裕さをも描き出している。


(「続日本の絵巻 春日権現験記絵」中央公論社より)
 
 この画面では、周囲は消火作業の真っ最中にもかかわらず、土倉の家では富を象徴するかのように既に木材が運ばれ再建が始まっており、家の中には土倉の経営者夫婦と子供がいるが、経営者は坊主頭であることから、土倉の多くが比叡山延暦寺支配下にあったこと、また、僧侶が寺に定居するのではなく、街中に妻子共々暮らしていたことを裏書している。


 ところで、「中世の光景」(朝日新聞学芸部編 朝日選書)を読むと、藤原定家が京都の大火で焼けた7条の土倉がすぐ復興されたことの驚きを「明月記」に記していると引用しつつ、「土倉」については下記のように述べている。

 【頑丈な土壁の倉庫を持つところからその名が生まれ、その業務は動産・不動産を担保として金銭を貸し付け、利子は幕府の規定で月4%以下に制限されていたが、それ以上の高利も普通だった。酒・味噌造りなどの兼業も多く、中世京都の富裕市民層を形成した。鎌倉末期、京都には335軒の土倉があり、うち280軒が比叡山延暦寺支配下にあったという】


こうみると、どうやら、中世は7条周辺に坊さんと女の高利貸が軒を並べていたようだ。


(※1)かしあげ:借上と書く。鎌倉から室町時代にかけの高利貸あるいは高利貸業者の呼称。

(※2)土倉(どそう):鎌倉時代に起こり室町時代に発達した金融機関。土蔵を構えて金品を預かったからそう呼ばれた。


 そうそう、表記の「坊さんに女とかけて「高利貸」と解く」の「その心は」が必要でしたね。それは、次回で。