新古今の周辺(83)寂蓮(30)和歌所(7)『仙洞影供歌合』〜最

『仙洞影供歌合』は、建仁2年(1202)5月26日に後鳥羽院が主催した歌合で、これまで知られたところでは寂連最後の歌合とされている。そしてこの2ヶ月後の7月に寂連は入滅した。

ところで「影供歌合」とは、先日足を運んだ出光美術館での『人麿影供900年記念〜歌仙と古筆展』(http://idemitsu-museum.or.jp/exhibition/present/
の説明に拠れば、元永元年(1118)、平安期の歌人・藤原顕季が歌会の場に、歌聖と称された柿本人麿の像を懸けたことが始まりとされている。

元永元年(1118)といえば、西行平清盛が生まれた年でもあり、同展では西行生誕900年を記念して俵屋宗達の筆になる『西行物語絵巻 第一巻』が展示されていたが、西行、若き日の武士佐藤義清と共に鳥羽院の北面で同僚であった平清盛も同年の生まれで二人は同い年であった。

23才で出家して望み通り桜の下で春に入滅した西行と、一時は天下を取ったものの熱病で悶絶死した清盛、若き日の二人は北面勤めをしながら互いをどのように感じていたのであろうか。

これは私の勝手な深読みだが、鎮守府将軍藤原秀郷の血を引く代々の武門名家出の佐藤義清が若くして出家した背景に、勢いのある新興武士としてにわかに台頭してきた平家一族の存在が関係しないはずはなかったと思っている。

脇道に逸れて恐縮であるが、私は先日、平清盛生誕900年記念の催しで演奏された「平家琵琶」の嫋々とした調べに浸ってきたが、さて、昭和・平成の時代に生きた者で、将来、生誕900年を記念して偲ばれる人物が果たしているであろうか、等と、どうでも良いことを考えてしまった。

さて、「人麿影供」であるが、誰よりも和歌の繁栄を期した後鳥羽院は、和歌所を設置した直後に、同所での初めての歌合として『人麿影供』の仕来りに則って『和歌所影供歌合』を開催している(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20180415)。

今回採りあげる『仙洞影供歌合』は、歌人は26名、歌題は「暁聞郭公」「松風暮涼」「遇不逢恋」の3題で、各題13番、計39番、判者は衆議判で、勝負付はされたが、判詞は記されていない。

ここでの寂連の出詠歌は各題3首で、俊成卿女と番って持(引分)2、負1の成績であった。

その中から「遇不逢恋」の題詠歌を採り上げたい。

   八番  左持(引分)    俊成卿女
夢かとよ見し面影も契りしもわすれずながらうつつならねば
(現代語訳:夢であったのか。逢ったときのあの人の面影も、契りをかわしたことも、忘れてはいないものの、現実のことではないので)

      右      寂連
里はあれぬむなしき床のあたりまで身はならはしの秋風ぞ吹く
(現代語訳:あの人が訪れてこないので、私が寂しく住んでいる里の宿はすっかり荒れてしまった。はかない独り寝の床のあたりまで、身は習慣で慣れると堪えられる、男心の飽き、秋風が吹くことよ)

ところで寂連の歌は、『拾遺和歌集』(巻十四・恋四・九〇一番)に入集している次の歌から「身はならはしの」の句を本歌として、同一箇所に置いて詠んでいる。

 (題しらず)    (よみ人しらず)
た枕のすきまの風もさむかりき身はならはしの物にぞ有りける
(現代語訳:共寝をしている時の手枕の隙間の風も寒かった。独り寝をしている今は、身は習慣で慣れると堪えられるものであることだ)

俊成卿女と寂蓮の対決は引き分けとなったが、後に俊成卿女の歌は『新古今和歌集』(巻十五・恋五、一三九〇番)に、寂連の歌も『新古今和歌集』(巻十四・恋四、一三一二番)に入集している事から共に甲乙つけがたい秀作であった事が分かる。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版