新古今の周辺(68)寂蓮(15)出家後の歌合(後の2)『御室撰歌

『御室撰歌合』は『守覚法親王家五十首』への撰歌合で、成立は正治元年(1199)から翌年にかけてとされる。判者は藤原俊成と記録されてはいるが、実際には出席者の審議の判断を考慮した判詞が記されている。

この歌合での成績は、顕昭守覚法親王・家隆・寂蓮・公継・有家・勝運らと続いて六条藤家の歌人が優位に立ち、御子左家の俊成・定家の成績は振るわなかったが、寂蓮は生蓮・勝運・賢清と競って、勝2、持(引分)5、負0で第三位の成績を修めて御子左家の中では家隆と共にで奮闘し、また、俊成と共に判定の場に臨んで意見を述べるなど主要な役割を果たした。

その中で『守覚法親王家五十首』には入集しなかったものの、判詞に当座の衆議判定を受け入れて俊成が判を下した様子が窺え得る興味深さに注目して、寂蓮が賢清と競って引き分けとなった「雑」の部の歌を採りあげた。

  雑 五十九番 左持(引分)      賢清

いたづらにはかなくすぐる月日かな後のよまでもうかるべき身を
【現代語訳:無駄にむなしく過ぎた歳月であったなあ。後世までも憂えるわが身であるよ】

  右                  寂蓮

あとたえて花ばかり咲く山里に鳥のねさへも音たえにけり
【現代語訳:訪う人も絶えて花だけが咲いている山里に、遂に鳥の鳴く声まで消えてしまったことだ】

  判詞                俊成

【現代語訳:左は述懐の趣が深く、右は普段とは異なる山家のけしき、述懐の表現にされたのも、微妙に趣が落ち着いているので、引分けにした方が良いであろうとの意見をそれぞれの人が申したので、右方の作者(寂蓮)が、私の歌はもっぱら山家を詠んで述懐の歌題に適っていないので負けにするようにと申し出られたところ、左方(賢清)からもそれなら私を負けにと申し出られたので、判者の俊成が、必ずしも欠点にはならないことであるので、良い引き分けであると申して判定を下した。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版