新古今の周辺(67)寂蓮(14)出家後の歌合(後の1)『六百番歌

東下り出雲大社参詣、さらに崇徳院を偲んでの四国讃岐への旅など漂白の時代を終えた晩年の寂蓮が、建仁元年(1201)に和歌所寄人に選ばれるまでに出詠した「歌合」から幾つか採りあげてみたい。

先ずは、55歳の寂蓮が漂泊の旅を終えて初めて出詠した『六百番歌合』から。
この歌合は建久4年(1193)に左大将藤原良経が催したもので、歌人の詠進が同年の正月頃から始まり成立は同年秋から暮れ頃までという大がかりもので、出詠歌人も権門系から慈円・良経・家房・兼宗、六条藤家から顕昭・李経・有家・李経、そして御子左家から定家・隆信・家隆・寂蓮と当時の歌壇を代表する錚々たる顔ぶれであった。

そして、歌題は「春」15首、「夏」10首、「秋」15首、「冬」10首、「恋」50首の1200首を右方、左方に分かれて競い、判者は藤原俊成であったが、特筆すべきは判詞だけでなく、左右に分かれた競争者が互いの歌を批評する難陳が記されている。

この歌合での寂蓮は、良経、兼宗、顕昭、有家、李経、定家と競い有家と李経に勝ち越したものの他には負け越して17勝、39持(引分)、44敗で、12人中11位と不面目な成績を残している。

その中から後世まで【独鈷鎌首(※)】と語り継がれた因縁のライバルの顕昭と競って寂蓮が負けた「夏」部の歌を採りあげたい。

 夏部 鵜河

 24番  左勝              顕昭
夜かはたつ さつきをぬらし せぜをとめ やそとものをも かがりさすはや
【現代語訳:夜の河で鵜飼をする五月が来たらしい。鮎のいるあちらこちらの瀬を探し求めて 多くの男達が篝火をたいているよ】

      右               寂蓮
うかひぶね たかせさしこすほどなれや むすぼほれゆく かがりびのかげ
【現代語訳:鵜飼舟が河の瀬を棹さして越えるところであろうか 篝火がからまるように揺れもつれているよ】

      難陳
    
右方 寂蓮申云 左歌ききよからず 左方 顕昭申云 右歌 火のむすぼほれる 心えず

      判詞               俊成
よかはたつはいみじく事事しくいはんと思ひて侍るめり、むすほぼれゆくかがりびのかげも たかせさしこさん程はさも見え侍りなん、但、左の歌 ききよからぬさまにては侍れども、かくしもやようにいひいづることも、ゆるすかたも侍りぬべし、左などか勝侍らざむ。

私は判者の俊成が、自身は御子左家の棟梁でありながらも、歌壇全体を目配りしておおらかな判定をしたリーダーシップに脱帽する。

ところで、この場では負けとなった寂蓮の歌は、後に『新古今和歌集 巻三、夏2525番』に入集して大いなる栄誉に浴すことになる。

(※)独鈷鎌首(とっこ鎌首):この「六百番歌合」では、勝負の判定の前に質疑応答の会議が良経邸で何回かに分けて行なわれた。歌人の多くは参加したりしなかったりであったが、寂蓮と顕昭は毎回出席して激しい議論を戦わせた。その際、真言宗の寺院で法橋の僧位を持つ顕昭は独鈷という仏具を手にし、一方の寂蓮は鎌首のように首を曲げて論争したので、良経邸の女房達はこの二人の争いが始まる度に「ほら、いつもの、独鈷と鎌首よ」と云って囃し立てたとされる。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

     『新古今和歌集』小林大輔編 角川ソフィア文庫