新古今の周辺(64)寂蓮(11)嵯峨の庵

34才の藤原定長が承安2年(1172)に出家をして寂蓮と称した後の消息について、後鳥羽院に仕えて和歌所の事務長を務めた源家長は『源家長日記』で次のように記している。

「世の事わりは昔もおぼしめししりけめども、此比ぞみちみちにつけてはいづれも御めぐみはけちえんに見え侍る。歌よみどもめし出だされ、思ひ思ひの朝恩にあづかる人々かずしらず。入道寂蓮はよをそむけて後、都の外にいほりむすびて、苔の袂も年をかさねつつ後のよの事のみいとなみ侍りけんに、めしいだされてつねにはべれば、はりまの国明石のうらのほとりにりやぅ所たまはりて、よのまじらひにほこりて侍り」と。

『家長日記』によると、出家した寂蓮は父・叔父・息子達のように延暦寺園城寺三井寺)などの官寺に入寺することなく、都の外に庵を結び後世を祈って過ごしていたところを後鳥羽院に召されて和歌所の寄人として務めているうちに、院から播磨国の明石の浦の領所を賜ったのである。

家長の記した「都の外」とは山城国の歌枕に詠まれた嵯峨のことで、その頃の嵯峨は皇室・貴族の別業(別荘)や寺院が営まれ、多くの遁世者の住処としても知られていた。

ところで『寂蓮集』には、文治4年(1188)2月20日、摂政九条兼実の長男で良経の兄に当たる内大臣良通が22才で頓死して嵯峨で葬儀が行なわれた時、その頃嵯峨に庵を結んでいた寂蓮が良経の奥方の嘆きに心動かされて詠んだ歌が収められている。

行くへなき霞の空をながめきて 思ふもかなしくずのうら風
【現代語訳:途方に暮れて春の霞(火葬の煙)の空を物思いに沈みながらぼんやりみているうちに秋になって、亡き人を悲しく思い起こさせる葛の裏葉を返す恨みの秋風が吹いているよ】

 しばらくして山中の住まいの跡に訪れて

たれもみなしのびし跡に松のかぜ 音のみのこる秋の夕暮
【現代語訳:誰もが思い慕った遺跡には、今はもう訪れる人もなく、松に吹く風の音だけが聞こえてくる秋の夕暮れだよ】

また、『長秋詠藻(※1)』には、寂蓮がその後、慈円から彼にとっては甥に当たる良通と良経が詠んだ歌などを藤原俊成に渡す仲立ちをした時の歌が収められている。

 摂政内大臣うせ給ひてのち、思ひながらえまうさざりしほどに、4月5日、殿の法師(慈円)御もとより、つたへて少輔入道寂蓮にて、故内大臣ならびに二位中将の御歌共をつかはしたりしにつけて御返し申す次に

いかにいひいかにとはむとなげくまに 心もつきて春も暮れにき
【現代語訳:どのように云い、どのように弔問してよいか嘆いているうちに、心も尽き果てて春も暮れてしまった】

このように親交を結んでいた寂蓮と慈円は翌年の文治5年の秋に次のような贈答歌を交わした事が『寂蓮法師集』に収められている。

 さがに住みける比、九月ばかりあさましきほどに世にしらぬ風吹きて、よもぎの庵たのむかげなく成りにけるを見て、殿法印に申しける

わがいほは都のいぬゐ住みわびぬ うき世のさがにおもひなせども
【現代語訳:私の庵は都の北西にあって住みにくくなってしまったことよ。無常の世の中のならわしと思ってみても】

 返し        慈円
道をえて世をうぢ山といひし人の跡にあとそふ君とこそなれ
【現代語訳:仏道の教えを悟って、世間の人が世を憂しとして住む宇治山だといった人(喜撰(※2))のように、あなたも足跡を追って加わりなさいよ】

この二人の贈答歌は『古今和歌集』並びに『小倉百人一首』に入集した喜撰法師の次の歌を本歌取りしている。

わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
【現代語訳:私の草庵は都の東南で、このように心静かに住んでいる。だのに、世の中を憂きものと思って宇治山に住んでいる、と人は噂するらしい】

ところで寂蓮が「あさましきほど世に知らぬ風吹きて」と記した強風は、兼実の日記『玉葉』では、文治5年8月20日夜に吹き荒れた暴風で、これによって都の人家の多くが損壊し、藤原道長の創建した鴨川西辺の法成寺の破損が特に酷かったと記されている事から、寂蓮の草庵が大きな被害を被ったことは想像に難くない。

(※1)長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう):家集。三巻。藤原俊成の私家集。俊成の自撰により、治承2年(1178)に守覚法親王後白河天皇第二皇子、仁和寺第六世)に献上された。歌数四百八十首。

(※2)喜撰(きせん):平安時代初期の歌人六歌仙三十六歌仙のひとり。生没年未詳。伝未詳。『古今和歌集』に一首入集。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

     『カラー小倉百人一首』 島津忠夫・櫟原 聰 編著 京都書房