新古今の周辺(63)寂蓮(10)出家・遁世の時代(2)僧界もまた

寂蓮が出家した時代は、公家(※1)・公卿(2)いえども長子に家督を継がせるだけが精々で、それ以外の男子を高位官職に付かせるだけの権力は既に持ち合わせておらず、それでも家の威光と財力を恃める野心家は延暦寺醍醐寺興福寺仁和寺などの官寺(※3)に入寺して僧綱(僧正・僧都・律師)という僧官の出世を目指したのであった。

実際に、出家した寂蓮の父・伯父・息子・従兄弟は全て官寺に入寺しており、父・俊海は阿闍梨という密教で伝法灌頂という秘法を伝授された資格を持つ高僧であった。また、寂蓮の叔父に当たる俊海の弟にも天台座主延暦寺のトップ)や園城寺権大僧都仁和寺権大僧都など高位を得た者が多いのは、従二位・権中納言だった祖父俊忠の威光であろうが、それでも寂蓮の息子に園城寺権律師、定家の異腹の兄に当たる俊成の出家した二人の息子はそれぞれ興福寺権大僧都延暦寺権律師の僧綱に上り詰めている。

ところで、当時の律令制下の官寺の僧は、単に仏教教学上の修行を積むだけではなく、朝廷・院・女院・公家の催す仏寺や大寺院の恒例の法会に招聘され、時には教学の知識を試す論議に参加することが求められており(公請※4)、その経歴や出席回数によって朝廷から僧綱(僧の官位)に叙せられるのが立身出世の過程であった。

と同時に、平安末期から鎌倉初期に亘って延暦寺興福寺をはじめとする大寺院の僧徒による強訴(※5)の嵐が吹き荒れ、寺内のあちこちでは寡頭頭巾に武装した僧兵が我が物顔で跋扈しており、僧侶の世界も世俗と異ならなかった。
http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20091009  http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20091101  http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20100504

武装した延暦寺の僧徒達 「続日本の絵巻3 法然上人絵伝中」中央公論社より )

(※1)公家(くげ):おおやけ。朝廷。朝家。主上天皇

(※2)公卿(くぎょう):公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議及び三位以上の朝官)との併称。

(※3)官寺(かんじ):律令制下、伽藍造営費を官府が支出し、経営維持に食封(じきふ)が給せられた寺・大寺・国分寺など。

(※4)公請(くじょう):朝廷から経典の講義・議論などに招かれる事。

(※5)強訴(ごうそ):徒党を組んで訴えを起こし、其れを強く主張する集団行動。
僧兵の強訴として代用的なものは、平安後期、延暦寺の僧徒が日吉(ひえ)神社の神輿を、興福寺の僧徒が春日神社の神木を奉じて入京し、朝廷に対し要求を貫徹しようとしたことが挙げられる。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版