新古今の周辺(59)寂蓮(6)歌人・中務少輔定長(3)心情吐露か

『住吉社歌合』は嘉応2年(1170)10月9日に、和歌の神社として尊ばれていた住吉社の社頭で藤原敦頼が催したもので、歌題「社頭月」・「旅宿時雨」・「述懐」の三題を歌林苑の大先輩の殷富門院大輔・小侍従と定長を含む歌人50人が番えて競うもので、判者は定長の養父・藤原俊成であった。


この歌合で定長は前斎宮大輔(後の殷富門院大輔)と競って、持(引分)2、負1の成績に終わっているが、その中から定長の出家への迷いが滲み出ているのではと私が深読みした「述懐」の歌を採りあげたい。

     左勝       前斎宮大輔
すみよしのなごのはまべにあさりして けふぞしりぬるいけるかひをば

【現代語訳:住みよしという名で名高い、住吉の名児の海の浜辺で魚や海藻などをとって、今日生きている価値を知ったことだ。】

      右       定長
なげかじな よはさだめなきことのみか うきをもゆめとおもひなせかし

【現代語訳:嘆くことはないことよ。この世の中は無常であることだけであろうか。憂きことをも夢と思うことにせよ。】

判詞      藤原俊成
左歌、こころしかるべし、すがた又ひとつの体なるべし、右歌も、ひとつの俗にちかきすがたなれど、ことのみか、と、おき、なせかし などいへる、なほ むげにすてたることばなり、左をこそはかつと申すべく

【現代語訳:左の大輔の歌は、趣がふさわしい。表現の方法もまた一つの様式である。右の定長の歌も、一つの世俗的に近い表現の仕方であるが、「ことのみか」と置き、「なせかし」と読んでいる。やはり捨てた表現である。左の大輔の歌を勝ちとするのがふさわしい。】

定長が、歌林苑の大先輩の大輔に負けるのは無理も無いとしても、何とも抽象的な表現の定長の底深い心情には、判者、俊成自身も絡んでいる事から、彼の心中を察して判定がしにくかったのでは無いかと、私は深読みしてしまった。

というのは、この歌合の頃には、応保2年(1162)、俊成49歳の時に誕生した定家が9歳に成長し、高齢にして思いもかけず授かった息子は可愛いだけではなく、長子成家で諦めていた直系に御子左家を継がせる期待も再燃して、日々の定家への歌の指導も半端ではなかったと思われる。そんな俊成と定家の姿を日々目にする定長の心中はいかばかりであったろうか。

以上が私の深読みである。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版