新古今の周辺(56)寂蓮(3)煌めく天才相関図

尊卑分脈』(※1)によれば、定長(寂蓮)は久安年間(1145〜1150)の末頃、藤原俊成の養子になっている。俊成には既に嫡男の成家がいたが、彼に歌道の御子左家(※2)を継がせるのは無理と見切りをつけ、当時12、3才ながら歌才の萌芽を見せ始めた甥の定長を後継者とすべく養子にしたのである。時に俊成は37、8才であった。

興味深いのは、その頃の俊成が美福門院女房の加賀と熱烈な恋のさなかにあった事で、当時の二人の間には結婚への障害が横たわっており、それゆえに切なさも半端ではなかった事が『新古今和歌集 巻第十三 恋歌三』に収められた二人の贈答歌からも窺える。

女につかはしける  皇太后宮の大夫俊成

1232 よしさらば のちの世とだに たのめおけ つらさにたへぬ 身ともこそなれ

【現代語訳:わかりましたよ。それではせめて後の世では一緒になることだけでも、わたしに期待を抱かせてください。わたしはあなたのつれなさに堪えられずに死んでしまう身となるかもしれませんから。】

返し  藤原定家朝臣

1233 たのめおかむ たださばかりを契りにて うき世の中の 夢になしてよ

【現代語訳:お約束しておきましよう、あなたのご期待に添いますと。ただそれだけをわたしとの御縁として、これまでのことは、この憂き世でみたはかない夢とお考えになってください。】

その障害を乗り越えて俊成が美福門院加賀と結婚をし、願ってもない天才歌人の定家が生まれたのは俊成が49歳の時であったが、このことは当時24歳だった定長の将来を大きく変えることになる。

その事はさておき、俊成は美福門院加賀との結婚により、彼女が前夫の為経(寂超)との間に産んだ隆信を手元で育てるのだが、この隆信こそ、今も世界屈指の肖像画と評される『国宝・伝頼朝像』の作者であり、さらに、隆信の息子・信隆も父の才能を受け継ぎ、叔父定家の支援を受けて当代を代表する宮廷絵師となり、承久の乱に破れて遠島となった後鳥羽院に召されて描いた肖像画が、大阪・水無瀬神宮が所蔵する『国宝・後鳥羽天皇像』である(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20150515)。

また、一度は俊成の養子となった定長は、後に出家して寂蓮となって若き藤原家隆を歌道上の婿に迎え、共に俊成の門下生として連れだって御子左家を訪れていたと記されている。

で、勝手に想像して、御子左家に会する煌めく天才達の相関図を書いてみた。


閑話休題
もし、美福門院加賀が現在の女性であれば「天才児の育て方」をテーマにした執筆依頼が殺到したことであろう。私としても御子左家の一堂に会した天才達がどのように交流していたのか知りたくて仕方が無い。

(※1)『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』:源・平・藤原・橘など日本の主要な諸氏の系図。洞院公定著。巻数は不定。諸系図のうちで最も信頼すべきものとされる。

(※2)御子左家(みこひだりけ):藤原俊成・定家以降、中世において勅撰集撰者を代々拝命して中世歌道家の頂点に立った家。御子左とは醍醐天皇皇子左大臣源兼明を指し、その邸は御子左家と呼ばれたが、その邸宅を伝領した俊成・俊海の曾祖父の藤原長家道長六男)を祖とする家系を御子左家と称している。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版
     『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』 田渕句美子 角川選書
     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社