新古今の周辺(55)寂蓮(2)宮仕え

鎌倉初期の歌人後鳥羽院設置の和歌所の寄人となり、『新古今和歌集』の撰者に選ばれながら撰進すること無く没した寂蓮は保延5年(1139)頃に生まれ、建仁2年(1202)頃に64才で没したとされる。

寂蓮の俗名は藤原定長。祖父は権中納言従二位藤原俊忠で、息子に希代の歌人藤原俊成を持つが、寂蓮の父を含む13人の子息は出家している。

その父・俊海は、権中納言従二位の高貴な父を持ちながら、何故か、延暦寺・奈良興福寺高野山金峯寺・仁和寺など京都周辺の古寺での修行を経て醍醐寺阿闍梨(※1)となる。母は未詳。

定長には、西園寺実宗の養子となり後年その美貌を鼻にかけて白昼武士の妻を犯してその夫に惨殺された長男保季と、出家した幸尊・公猷・昌観の4人の男子がいた。

定長の宮仕えは保元2年(1159)の19才頃に始まったと見られるが、保元3年(1158)に即位した二条天皇(※2)から従五位下中務少輔を賜り、その後に従五位上に昇進しているが、彼の官僚生活は永万元年(1165)に二条天皇崩御した後も高倉天皇の即位直後まで続いた。

因みに定長が中務少輔として務めた中務省律令制の八省の一つで、天皇側近に侍従し、詔勅の文案を審署し、宣旨・上表の受納・奏進、国史の監修、女官の名帳および叙位、諸国の戸籍・租税帳および僧尼名籍などを取り扱い、卿・大輔・少輔・丞・録などの官位がある。

定長が二条天皇に仕えた当時を偲ぶものとしては、仁安2年(1167)8月に催された『平経盛朝臣歌合』における「中務少輔定長」の名で詠進した次の歌が挙げられる。

二條院宮白川にはじめて住給ひけるころ、祝いのこゝろを草子に書付よとおほせられければ

水上の程だに遠き白河の 流れの末をおもひこそやれ

白河の花ちりがたに人々まかりければ、風あらく吹て名残なきまで花の散ければ

たづねつる人は家路も忘られで 花のみけふはねにかへる哉

他方で定長は舞にも優れていたようで、中務少輔の名前で賀茂祭並びに石清水八幡宮臨時祭の舞楽舞人を幾度か務めており、『寂蓮集』には「石清水八幡宮臨時祭の舞人の折の歌」として次の歌が収められている。

石清水臨時の祭舞人しけるに、彼の御山にたち宿りける家のあるじ、又来ん春も相待つべきよし申しければ、思ふ所ありけん

又も来ん春とはえこそ石清水 たちまふべくも有りがたき世に
【現代語訳:再び来年の春の石清水の祭にやって来てくれて、待っているとのことであるが、舞人として舞うことのありそうにない時世であるので】

この歌は嘉応2年(1170)春の折のものと思われるが、これ以降舞人をつとめた記録がみられないところをみると、出家を念頭に置いて詠んだのではないかと推測されている。

〔閑話〕下世話な話題で恐縮ですが、衆目に晒される舞人に選ばれるには見た目がが大きな要素を占めることと、美貌を鼻にかけて事件を引き起こした長男とを考え合わせると、寂蓮は見目麗しい男性だったのではと想像している。

(※1)阿闍梨あじゃり):○師範たるべき高徳の僧の称。○密教で修行が一定の階梯に達し、伝法灌頂により秘法を伝授された僧。○日本で、天台・真言の僧位。

(※2)二条天皇後白河天皇の第1皇子。名は守仁。六条天皇に譲位。二条の皇居で没す。院政を目論む父・後白河院と対立した。康治2年(1143)〜 永万元年(1165)。在位:保元3年(1158)〜 永万元年(1165)

参考文献:『日本歌人講座第3巻 中性の歌人?』 文学博士久松潜一 文学博士實方清 編 弘文堂

     『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版