彼方の記憶(7)日本女子大出の銀座クラブのママ

バブルよりもずっと前、田中角栄の「日本列島改造論」が爆発的に売れ、その直後に彼が首相になった1972年頃は、日本経済が高度経済成長軌道をまっしぐらに進み、企業は何を作っても売れて儲かるという、日本全体が活気のある時代であった。

そして企業交際費も鰻上りで、交際費天国といわれた時代でもある。その頃の東京の企業の交際費の使途は銀座のバーやクラブに顧客を接待するというのが一般的であった。

その当時の私は営業部署のOLだったが、大きなプロジェクトが終わると「打ち上げ」と称して、銀座7丁目西五番街の雑居ビルにあるクラブに、上司に誘われて男性社員達と繰り出す事が幾度かあった。

そのクラブは、雑居ビルの6、7階の迷路のような一角にあり、カウンターとテーブル席が3つ、バーテンが1人、ホステスが4〜5人とこじんまりしており、ママが日本女子大出である事が話題であった。

そのママはいつも薄化粧で、和服の時は山の手の奥様然とした上品さが、洋服の時は上等な仕立てのテーラードスーツを着こなして知的な美しさが漂い、インテリを自認する上司たちに大いに受けていたのである。

私がそのクラブに足を踏み入れたのは片手で数える位しかないが、それでも、いつ見ても、彼女は水商売のミの字も感じさせることはなく、むしろ清楚さを漂わせ、客に対しても従業員に対してもソフトに対応し、クラブの経営者としては優秀だったのではないかと思う。

そこのクラブでは、私も男性と同じようにホステスからサービスされたし、帰り際にはバーテンにタクシーをキャッチさせ、車に乗り込むまで丁重にエスコートしてくれた。

往々にして、こういう場合、会社の女子社員とクラブのホステスの間はギクシャクする事が多いらしいが、私の場合は性格が男っぽくてさっぱりしていたからママのほうも気が楽であったようだ。

時には私だけに「銀座ウエスト」のクッキーを1箱お土産に渡してくれることもあったが、これは接待費の伝票を処理する女子事務員への心配りであったかも知れない。

あれから、オイルショックバブル崩壊を経て、多くの企業が交際費削減や交際費廃止に走り、銀座のクラブも衰退が囁かれた時期もあった。

今でも銀座7丁目界隈を歩くと、ネオンとテールランプが渦巻く深夜の路上で、バーテンにエスコートされながらタクシーに乗った場面を思い出し、あのママは今頃どうしているかと懐かしんだりする。