新古今の周辺(51)源頼政(6)内昇殿への焦がれ

源頼政は長治元年(1104)源仲政を父として誕生したが、世は白河院政が開始されて19年目に当たっていた。

頼政の生没年は父・仲政と同様に未詳であるが、これは当時の武士階級には、藤原宗忠の『中右記』、九条兼実の『玉葉』、吉田経房の『吉記』、藤原定家の『明月記』のように前例踏襲を是とした宮廷貴族が家業の伝承の為に事細かく日記を記す習慣がなかったからである。

そこで、参議以上の官、あるいは従三位以上の位階の補任を記した『公卿補任』によると、頼政の官僚としての経歴は白河院の時代に六位の判官代からスタートし、それ以降は保元の乱(1156)までは鳥羽院政下の官僚を務めている。

その間に崇徳天皇時代の保延2年(1136)には蔵人に補されて従五位下に叙され、この頃父・仲政から所領を譲られたとみられ仲政は生存していたようだ。

そして、頼政保元の乱を迎えたときには頭に白いものを頂く53歳に達し、保元の乱を速やかに鎮圧した勲功により鳥羽院から特別な信を得、さらに、平治の乱で父・後白河院と対立する二条天皇の強力な後ろ楯となった平清盛は、六条天皇即位の翌年の仁安元年(1166)には内大臣、翌年には太政大臣に昇り、平氏一強の時代に突入していた。

対する源頼政は清盛から信頼されていたとはいえ、後白河院の昇殿は許されていているが大内(※1)の警護を任されながらも内昇殿(※2)は許されず忸怩たる思いで務めをはたしていたようだ。当時の心情を詠んだ歌を幾つか採りあげてみた。

いまだ殿上を許されるぬ事をなげき侍りしに、二条院の御時(二条天皇の時)3月10比(日か?)に行幸なりて南殿(なでん)の桜さかりなりけるを一枝おらせて、去年(こぞ)と今年といかがあると仰せ下さりて侍りしかば、枝にむすびつけてまいらせ侍ける。

よそにのみ思ふ雲井(※3)の花なれば 面影ならで見えばこそあらめ

かへし   丹波内侍
さのみやはおも影ならでみえざらむ 雲井の花に心とどめば。

次は『新後撰集』に採られた贈答歌

いまだ殿上ゆるされざりける時、雪のふりける日清涼殿にさしおかせ侍りける

いかなれば雲の上にはちりながら 庭にのみふる雪をみるらむ

かへし   よみ人しらず

心ざしふかくも庭につもりなば などか雲ゐの雪もみざらむ

(※1)大内(おおうち):皇居。内裏。因みに大内守護とは皇居を守護した職名。はじめ公卿の武勇ある者を用い、源頼朝の時、御家人(鎌倉・室町時代は将軍譜代の武士、江戸時代は将軍直属の家臣で御目見以下の者)にこれを充てた。

(※2)内昇殿(ないしょうでん):うちのしょうでん。清涼殿の殿上(でんじょう)の間に出仕すること。

(※3)雲井(くもい):雲位。宮中。皇居。

参考文献:『人物叢書 源頼政』多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館