彼方の記憶(3)嵯峨野民宿「厭離庵」の一幕

「物語 京都の歴史」脇田修・脇田晴子著(中公新書)は平安京以前の京都から平安京、鎌倉・南北朝・室町・安土桃山・江戸時代を経て幕末にいたる京都の移り変わりを権力者と市井の人々に焦点を当てて描いたものである。

院政期」に深い関心を抱く私がこの本から示唆されたことは、「歴史は人間の欲望による対立と抗争によって織り上げられてきた」であり、さらには院政期にうごめいた人々の動機や感情の本質を知るには、連綿と続く「京都と権力」の構図を頭に叩きこむ必要があるということだった。

さて、その「物語 京都の歴史」が嵯峨野・嵐山に焦点を当てたところで、鎌倉時代の遺跡として、藤原定家が「百人一首」を撰歌した山荘跡とされる『厭離庵(えんりあん)』がある事を知った。はて、厭離庵?たしか、私が宿泊した嵯峨野の民宿は厭離庵ではなかったかと、一気に若かりし頃に思いが飛んだ。

時は、お嫁にしたいと思わせるコンサバな女性を対象にしたnon-no(集英社)と、我こそは個性的と自認する女性を対象にしたan.an(平凡出版、現マガジンハウス社)がファッション雑誌界を二分し、おりしも揃って国内旅行ブームを煽り日本中至る所にアン・ノン族がゾロゾロと出没していた頃である。

当時non-noの定期読者だった私はその頃の「平家物語」・「源氏物語」のロマンを絡めた詳細なマップ付「嵯峨野・嵐山」特集に惹かれて、始めての一人旅を京都に定め、宿泊先も記事お勧めのおかゆ朝食付きの民宿「厭離庵」を予約したのだった。

初めて足を踏み入れた嵯峨野では、しっとりとした深い竹林を分け入り、祇王寺・化野念仏時・瀧口寺・二尊院・落柿舎等のコースを、狭い道を埋め尽くしたアンノン族に連なってゾロゾロとうろついたのだった。あの頃は若い女性だけでなく若い男性も随分居たように思う。「Discover Japan」のムードが日本全土を覆っていたのだ。

さて夕日も落ち夕食を外で済ませた私は、見事な竹垣に囲われた一端に「厭離庵」と小さなぼんぼりを掲げた宿泊先に辿り着いたのだが、予約は私一人のはずの二階の部屋では私より5歳位年上と思える女性が既に荷物をほどいていた。

そして、お茶を運んできた40歳前後のはんなりした女将が恐縮しながら「突然で申し訳ないが、今夜だけ是非相部屋をお願いしたい」と丁重に申し出る。私もまさか本人を目の前にして嫌とはいえず、持ち前のエエ格好しで鷹揚に承諾した。
 
女将が姿を消し、残された私たちはぎこちないながらもぼそぼそ言葉を交わすうちに、彼女には夫と幼い子供が二人いる事は分ったが、それ以上の立ち入った話は出来なかった。何しろ、彼女の目の光が異常に熱っぽく、ちょっとエキセントリックな感じだったのだ。

そろそろ場を持て余している頃に「ごめんください」との壮年の男の声がして、民宿の主と称する40代前半と思われるちょっと垢抜けた男性が一升瓶とおつまみの盆を抱えて登場し、そこから三人で奇妙な宴が始まった。

日本酒は上等、おつまみも心づくしのもので、宿の主は一部上場のビール会社に勤務していて、民宿は専ら女将さんが担っていることなどを聴かせてくれたが、相客の女性が人前で筋道だった話が出来ない事もあって、宴の会話は専ら主と私の間で交わされ、「さすがに貴方は会社に勤めておられるだけに筋の通ったお話をされる」との主の言葉が今でも記憶に残っているが、それも。 申し訳なさのリップサービスだったかもしれない。

一夜明けて、私が再び民宿に戻ると、女将が「昨夜は大変失礼しました。あの女性はご主人と口論して幼い子供を残して家を飛び出して『泊まらせてくれ』と突然宿に現われたので断れなかった」こと、相客二人が気詰まりになってはと、ご主人が気を利かせて一席設けることになったのだと恐縮しながら説明してくれた。

二泊目にして私はやっと嵯峨野の静かな夜に浸ることが出来たのたが、旅先では思いもかけない事に巡り合うものだ。そう云えば「厭離庵」は駆け込み寺でもあったのだ。