新古今の周辺(44)鴨長明(41)源頼政(1)藤原俊成の視点

鴨長明は武士歌人源頼政(※1)を藤原俊成と彼の師・俊恵が高く評価していることに注目して『無名抄』に記しているが、まずは俊成の視点から採りあげてみたい。

「55 俊成入道の物語

五条三位入道(藤原俊成)が申されることには、

「俊恵は当世の歌の上手である。が、しかし、父の源俊頼(※2)には尚及びがたい。俊頼は、いつも、いつも、歌を詠もうとする心であらゆる方向に目を向けて、一方向に偏ることなく、多面的に歌を詠むが、そのすべての歌がが私の力が及ばないほどである。

しかし、今の世では、頼政こそ、頭抜けた歌の上手と云える。頼政さえ歌合の座に連なっておれば、衆目は自ずと彼に注がれ、『あー、また、彼にしてやられたなー』と思わせられるのである」

さて、その俊成の頼政への評価を示す例としては、建春門院の殿上歌合(※3)の「関路落葉」の題で頼政が次の歌を詠んだ出来事があげられる。

都には まだ青葉にてみしかども、紅葉散り敷く 白河の関

この歌で頼政は勝を得たが((http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20160915)、その時の判者は藤原俊成であり、彼はその理由を次のように述べている。

頼政の歌は能因が詠んだ、

都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関

を措いたものだが、能因の詠んだ上の句の「霞と共に立ちしかど」には及ばないものの、「紅葉散り敷く 白河の関」と詠むことで、都を発つ時には青々としていた木々の葉も白河の関に着くころには紅葉を散り敷くまでになった日数のほども心細くおもいやられるうえに、この座に連なる人々も満足されているようなので、頼政の歌を勝としたい」と。

さらには、同じ歌合での「水鳥近く馴る」の題で頼政が詠んだ次の歌を、

子を思ふ 鳰(にほ)の浮巣のゆられきて 捨てじとすれや 水隠(みがく)れもせず

「『鳰の浮巣のゆられきて』と詠んだところは、理屈を超えて自然に言葉が続くところに珍しさがある。『子を思ふ』とおいた五文字も趣が深く思われて、勝とする」と、判定している。

もっとも、この歌の内容と判定については、俊恵の弟の祐盛(※4)が「鳰の巣作りの実態を知っていればこんな歌が勝になるはずはないが、本当のこと誰も分かっていないので何を言っても始まらない」と、嘆いた事も長明はしっかり記している。


(※1)源頼政:長治元年(1104)〜治承4年(1180)。享年77歳。清和源氏、仲正の息子。仲綱・二条院讃岐の父。蔵人・兵庫頭を経て右京権太夫従三位に至る。治承4年5月後白河院皇子以仁王を戴き平家追討の兵を挙げたが宇治川の合戦で敗れ、平等院で自害した。家集『源三位頼政集』

(※2)源俊頼宇多源氏。生没年未詳、天喜3年(1055)頃生まれ、大治4年(1129)没か、で、享年75歳頃と推定。大納言源経信の息子。俊恵の父。従4位上木工頭、中古六歌仙。『金葉和歌集』の撰者。歌集の他に当時の歌人に大きな影響を与えた歌論集『俊頼髄脳』、家集『散木奇哥集』を著した。

(※3)建春門女院の殿上歌合:建春門院北面歌合。嘉応2年(1170)10月19日(歌合本文は10月16日)に催された。題は「関路落葉」「水鳥近馴」など3題。作者は藤原実定・同隆季・同俊成・同重家・同清輔・同隆信・源頼政・同仲綱等20名。判者は藤原俊成

(※4)祐盛(すけもり):元永元年(1118)生、没年未詳。宇多源氏、俊頼の息子、俊恵の弟。公名は式部公。比叡山の僧で阿闍梨


参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫