新古今の周辺(43)鴨長明(40)歌論(12)「本歌取」の評価と

ところで優れた先人の歌の一部を自分の歌に取り入れる「本歌取」はどのように評価するのであろうか。それの一つのあり方を鴨長明は歌の師・俊恵の体験を通して『無名抄』で次のように述べている。

「8.頼政の歌 俊恵選ぶこと

建春門女院(※1)の殿上歌合(※2)で前もって「関路落葉」という歌の題が出された時に、頼政卿(※3)は、

都には まだ青葉にて見しかども、紅葉散り敷く白河の関
【現代語訳:旅立った時の都ではまだ青葉の状態で見たが、紅葉が散っているよ、ここ白河の関では】

の歌の他に同じ歌題で幾つか作り、どれを歌合で発表するかで当日まで悩んだ末に俊恵を呼んで、歌を見せて彼の意見を聞いたところ

「この『紅葉散り敷く白河の関』の歌は、かの能因(※4)の『秋風ぞ吹く白河の関』の歌に似ています。しかし、『紅葉散り敷く白河の関』は歌合の場で詠み上げれば、集まった人たちに色鮮やかな場面を思い起こさせる事が出来るという意味ではか、とても「出(い)で栄え」のする歌です。

例え歌合いに集まった人たちが『紅葉散り敷く白河の関』をかの能因の歌に似ていると知っていたとしても、このように鮮烈な場面展開を詠んでいますから能因の本歌はるかに圧倒しており、能因の歌に似ているからと誰も批判する事はないと思います」

と、俊恵が強く『紅葉散り敷く白河の関』の披露を推奨したので、差し寄せた車に乗った頼政は、

「貴房のご判断を信じてこの歌を歌合にだすことにしましよう。結果に対する責任は取ってもらいますよ」と、声をかけて出かけて行った。

さて、当の歌合で頼政の『紅葉散り敷く白河の関』は俊恵の予想通り歌合で鮮烈な印象を与えて判者の藤原俊成と参加者の評価を得て勝ちとなり、頼政は帰宅後ただちに俊恵のもとに使いを走らせ喜びの気持ちを伝えた。

「私としても頼政卿の『紅葉散り敷く白河の関』の歌は見所があったので、あのように申し上げたものの、本来自分とは直接関係のない部外者でありながら、結果を待つまで胸がつぶれるような思いであった。この事は私にとってもたいそうな手柄になったと、心中で思ったものだ」と、後に俊恵は長明に語った。

因みに頼政の『紅葉散り敷く白河の関』の本歌とされたのは能因の次の歌であった。

都をば霞とともに立ちしかど、秋風ぞ吹く白河の関
(『後拾遺集』 羈旅・518 言葉)

(※1)建春門女院:平滋子。康治元年(1142)〜安元2年(1176)、享年35歳。平時信の娘、平清盛の妻平時子の妹。後白河院の女御、高倉天皇の母となり皇太后となって建春門院の院号を蒙る。

(※2)建春門女院の殿上歌合:建春門院北面歌合。嘉応2年(1170)10月19日(歌合本文は10月16日)に催された。題は「関路落葉」「水鳥近馴」など3題。作者は藤原実定・同隆季・同俊成・同重家・同清輔・同隆信・源頼政・同仲綱等20名。判者は藤原俊成

(※3)頼政卿:源頼政。長治元年(1104)〜治承4年(1180)。享年77歳。清和源氏、仲正の息子。仲綱・二条院讃岐の父。蔵人・兵庫頭を経て右京権太夫従三位に至る。治承4年5月後白河院皇子以仁王を戴き平家追討の兵を挙げたが宇治川の合戦で敗れ、平等院で自害した。家集『源三位頼政集』

(※4)能因(のういん):永延2年(988)生まれ、没年未詳。平安中期の歌人中古三十六歌仙の一人。俗名は橘永緂(ながやす)。出家前から藤原長能に和歌を学び、摂津に住み、陸奥・美濃・伊予・美作など各地に旅をした。家集『能因集』、歌学書『能因歌枕』。

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫