新古今の周辺(30)鴨長明(30)歌論(2)歌風の変遷

71 近代の歌体 2

大体、この頃の歌のありようと中頃のそれとの優劣を判じているのに、いつのまにか水・火のように対立するものの如く論じているのは納得ゆくものではありません。というのは、歌のありようは全て世の移り変わりに従って変わってゆくものですから。

昔の歌は、短歌だけではなく長歌も含めて文字数というものが定まっておらず、ただ心に思い浮かんだままを言葉に表して詠むだけでした。

ところが、かの、須佐之男命(すさのおのみこと)が妻の櫛名田比売(くしなだひめ)と新宮を作った時に「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を【出雲の幾重もの八重垣 妻をこもらせるために八重垣をつくるよ そのみごとな八重垣を】」と歌って以来、歌の文字数は五句三十文字に定まってきましたが、それでも万葉集(※1)の頃まではまだ自分の気持をそのまま言葉にしただけの作品が多く、歌の姿や言葉に意識を払っていたわけではありませんでした。

やっと延喜5年(905)頃に初めての勅撰和歌集である古今集(※2)を撰集する頃に、歌に花や実を備えることで多様な風情を詠む歌風が盛んになり、これが中頃の歌の特徴とされるようになりましたが、展暦5年(951)に第二の勅撰和歌集である後撰集(※3)を編纂する頃は、優れた歌はことごとく古今集に採集されて、満足のゆく良い歌を充分に採集することが叶わず、歌の心を優先するほかはなかったのです。

そして寛弘2年(1005)頃に始まった第三の勅撰和歌集である拾遺集(※4)を編む頃は、歌のありようは殊のほか身近な題材を詠む風潮が強まり、あいまいさを排した明白なことわりと技巧的ではない自然で素直な歌をよしとする歌風になってゆきました。

その後の応徳3年(1036)に第四の勅撰和歌集となる後拾遺集(※5)を撰する頃は、歌風は柔らかいもの変化して昔の歌風は忘れ去られました。このことは、やや昔風を良しとする当時の歌人にとっては受け入れがたかったようで、彼らは悔しさのあまり「後拾遺姿」と揶揄していたようだとある先輩歌人は申しておりました。

また、大治1年(1126)に第五の勅撰和歌集である金葉集(※6)を撰集する頃には、わざとおかしみを表現しようとして軽々しい歌が多かったようです。

さらには、天養1年(1144)に第六の勅撰和歌集である詞華集(※7)、寿永2年(1183)に第七の勅撰和歌集である千載集(※8)を撰集するところまで進むと、歌全体の大きな方向性は、後拾遺の流れを汲んだ歌風にまとまってゆくようになりました。

これまでの歌風の変遷をかいつまんで申し上げると以上のようになります。

(※1)万葉集(まんようしゅう): 『万葉集』現存最古の歌集、20巻。仁徳天皇皇后の歌とされるものから淳仁天皇時代の歌(759年)まで約350年間の長歌・短歌・連歌等合わせて約4500首、天皇から無名の農民の歌を収めるわが国最古の歌集。編集は大伴家持と考えられる。

(※2)古今集:『古今和歌集』。最初の勅撰和歌集。20巻。約1100首を収める。紀貫之紀友則凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)撰。延喜5年(905)に醍醐天皇の勅命により成立。

(※3)後撰集:『後撰和歌集』。第二の勅撰和歌集。20巻。1420余首を収める。展暦5年(951)に梨壺に撰和歌所が設置されて数年ののちに、村上天皇の命により大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・清原元輔・源順(したごう)紀時文・坂上望城(さかのうえのもちき)の梨壺の5人が撰した。

(※4)拾遺集:『拾遺和歌集』。第三の勅撰和歌集。20巻。1300余首を収める。花山法皇の親撰により寛弘2年〜4年(1005~1007)頃成立。一説には藤原公任の私選した『拾遺抄』に花山法皇が増補したとする。

(※5)後拾遺集:『後拾遺和歌集』。第四の勅撰和歌集。20巻。1200余首を収める。応徳3年(1086)白河天皇の命により藤原通俊が撰集。

(※6)金葉集(きんようしゅう):『金葉和歌集』。第五の勅撰和歌集。10巻。白河院の命により源俊頼が撰集し大治1年(1126)頃成立。

(※7)詞華集:『詞華和歌集』。第六の勅撰和歌集。10巻。約410首を収める。天養1年(1144)藤原顕輔崇徳上皇院宣を受けて撰に当たった。

(※8)千載集:『千載和歌集』。第七の勅撰和歌集。20巻。1288首を収める。寿永2年(1183)後白河法皇院宣により藤原俊成が撰集し文治3年(1187)頃成立。

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫