新古今の周辺(24)鴨長明(24)大輔と小侍従(1)女房歌人

鴨長明の時代の「女房」とは禁中や院中でひとり住みの房(部屋)を与えられた高位の女官を指し、現在のキャリアウーマンを意味した。彼女たちは内裏や院御所に出仕して天皇中宮上皇女院のそば近くに仕え、時に高位高官たちと丁々発止のやり取りを交わしながら同僚とは切磋琢磨して競い合う日々を生きたのである。

また、当時の最高権力者後鳥羽院が和歌の振興を高く掲げ積極的に女流歌人の輩出を後押しした事もあって、長明は歌壇で評価の高かった幾人かの女房歌人について「無名抄」に記しているが、ここでは俊恵法師の言葉を引用した大輔と小侍従を採りあげたい。

65 大輔・小侍従一双のこと

「近年の女流歌人の上手としては大輔(※1)と小侍従(※2)が歌壇で取りざたされています。大輔の方は歌に対する理論や知識の習得などに特別に力を入れ、飽くことなく何時でも何処でも粘り強く歌を詠む姿勢が優れています。

対する小侍従は、聴く人がはっと目を見張るような華やかな状況を詠むことに優れており、贈答歌においては贈られてきた元の歌からまさにこの事こそが肝心だと思われるところをおさえて返歌を詠む心映えは誰も敵うものがありません」
と、俊恵法師は私に申しました。

ところで大輔は殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)と称したように、殷富門院(後白河天皇皇女亮子内親王http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090602)に女房として仕え、「千首大輔」の異名を持つ多作歌人として知られていた。この事は、自ら歌を詠むことはなかったものの積極的に文化サロンのパトロン役を果たした殷富門院の役割も大きかったのではないかと私は思っている。

他方の小侍従は二条天皇太皇太后藤原多子及び高倉院(後白河天皇王子・高倉天皇)に女房として仕えた。

余談だが私が利用する電子辞書の『古典文学事典』によれば大輔と小侍従は母方の従姉妹に当たるとか。

(※1)大輔(たいふ):生没年未詳。藤原信成の娘。正治2年(1200)頃に70歳位で没したと思われる。家集「殷富門院大輔集」を著す。

(※2)小侍従(こじじゅう):生没年未詳。石清水八幡宮別当紀光清の娘。建仁元年(1201)に八十余歳で生存か。家集「小侍従集」を著す。


参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫